【五行伝 ― 新緑の道標 ― 】
 
 
 

第二章 ― 決意 ―
 

8.
 

  「……つるぎ…」

   真夜中に不意に目を覚ました緑は、自分の眠るベッドの横に、先ほど部屋を出て行く直前と同じように反対向きにした椅子の背もたれに突っ伏して寝ている剣の姿を見た。暗闇の中で眠い目を擦って、もう一度良く見てみても、やっぱりそこにいるのは間違いなく剣だった。
   確か自分が眠る前に剣は部屋を出て行ったはずなのに? 戻って来たのだろうか?一体何のために?

(そんなの、決まってるよね……)

   椅子の背の上に組んだ両手に頬っぺたを乗せて眠る剣の顔には、彼の長い髪が被さっていたので、表情は良く分からなかった。しかし、かすかに聞こえる寝息が彼が完全に熟睡している事を物語っていた。

「ずっと……そばにいてくれたの?」

   答えが返って来る事を期待せずに、剣にそう問い掛けてみる。予想通り、剣の反応は「う…ん…」という寝言のような返事だけだった。

「どーして? どーしてそんなに優しいのさ、剣……」

   緑は困った様な表情でもう一度、剣に問い掛ける。今度も、返事は無い。緑はポフッと音を立てて枕に顔を埋めてみる。

「ボク……どーしたらいいんだろう?」

   今度は誰に聞かせるとも無く呟く緑。もう、なにもかもわからなくなってしまった。これからの事も、自分の気持ちも。燈火と一緒にいた時には、あの暖かく燃えていた焚火のそばで二人一緒にいたときには、確かに”道”が見えたような気がしたはずなのに。

(こんな時、燈火ならなんていうかな……?)

   緑は燈火のセリフを想像してみる。燈火はいつもいつも物事の本質を突いた事を平気でズバズバと言う人だった。だから、もしこんな状況になったら、彼ならきっと……。
 
(緑、オマエのやりたいようにやれよ。それが間違っていたとしてもかまわない。やる前にあれこれ悩むのは時間のムダだぜ?)
「でもさ、燈火? だってボク、その”何をやるか”がわからないんだもん。」

   想像の中の燈火の言葉に反論する緑。枕に顔を埋めたまま、緑は大好きな燈火の面影を心に描く。緑の心の中の燈火は、彼女の反論を髪を掻き上げながら笑い飛ばした。

(違うな、緑。オマエはもうわかってる。ただ、一人でやるのが恐いんだ。オレがついてないとダメなのか?)
「そんなことない! そんなことないよ、燈火っ……」

   緑はぶんぶん頭を振って答える。本当に頭を振ったから、まくらがばふばふと音を立てた。そして想像の中の燈火は、あの焚火のそばで見せた優しい微笑みで緑に笑いかけた。

(じゃぁ頑張れよ、緑。きっと、オマエならきっと大丈夫だ。オレは信じてるぜ?)
「ウン………燈火、アリガト………」

   緑はまどろみながら燈火に礼を言う。燈火はその言葉に小さく頷くと、なぜか手を振りながら消えていく。

(じゃぁな、緑。)
「あ、待って! 待ってよ燈火!! ボク、ボク……お願い、早く帰ってきて! じゃないと、ボク……」

   想像の燈火が居なくなりそうになって、緑は彼がやっぱりそばにはいないのだという事を痛感する。そして、剣の事を思い浮かべる。椅子の背にもたれたまま眠る剣。燈火の事で落ち込んでいた自分を励ましてくれた剣。自分を助けてくれた剣。

   ……そう、だって剣はこんなにも自分のそばにいてくれる。こんなにも自分に優しくしてくれる。緑は、自分の気持ちが揺らぐのを感じていた。

   ……恐かった。

   しかし、消えていきながらも燈火はニヤリと微笑むと、ハッキリと言った。

(……約束したろ? もうすぐだ、もうすぐ帰るよ、緑。)
「きっと、きっとだよ燈火。お願いだから……」

   微笑みながら消えていく燈火の面影に必死で言葉を投げかけながら……緑はまた、深い眠りの中へと落ちていった。
 
 
 

  (あら? もう目的地なのかしら?)

   遥か前方を翔んでいた輝煬が、不意に急降下していくのが見えた。【山】を出てから1時間ほど翔び続けただろうか? 遠くからではっきりとはわからなかったが、輝煬が降り立ったのはグラウンドかなにかの様だった。

(うーん、まさかあんなところに剣がいるのかしら?)

   疑問符を浮かべながら、低空飛行に切り替えてゆっくりと輝煬のいるグラウンドの方へと近づいていく渚。輝煬が降りたのは、どうやら小学校か中学校の校庭らしい。先ほどよりは大分近づいたとは言え、この距離ならばまだ悟られる心配は無いはずだった。

   が、甘かった。

   渚はグラウンドが見える距離まで近づいてみてギョッとした。なぜなら、輝煬が腕を組んで仁王立ちしながら、ニヤニヤした笑いを浮かべてこちらを見上げていたからだ。

(気づかれた!? ど、どうして……?)

   動揺と焦りの色を隠せない渚。しかし、見つかってしまったからにはしょうがない。出来れば剣と合流してから考えたかったが、とにかく今の渚に残された選択肢は二つしかなかった。

   適当な言い訳をして【山】へと引き返すか。

   又は、輝煬をここで闇に葬り去るか、だ。

「あら、輝煬殿じゃない? 奇遇ね♪」

   渚はかなり苦しいセリフを言いながら輝煬の前に降り立つ。渚の黒く長い髪が一瞬フワリと浮き上がり、サラサラと音を立てて肩から腰へと流れていく。輝煬は目を細めて渚を下から上へとねめつけると、下卑た笑い声を上げながら渚にとっては予想外の言葉を吐いた。

「クックック…『奇遇ね』じゃねぇんだよ、渚ぁ。俺には分かってたんだからなぁ、てめぇが俺をつけて来るのが……。」
「!!……な、なんのこと? 私はたまたま用事でこっちに来ただけよ?」

   渚は、輝煬の視線に悪寒を感じて、両手で胸を隠すような仕種をしながら後退る。そんな渚を見て、輝煬はニタァ…と笑いながらズイッと渚の方へと詰め寄る。

「渚ぁ、そんなに剣の事が心配かぁ? ええ? だがな、俺はヤツを殺るぜ。大体俺はあーいうスカしたヤロウが一番嫌いなんでねぇ…。」
「だ、だからなんのこと? 私は別に貴方をつけて来たわけじゃないのよ、輝煬殿。」
「そうかねぇ? クゥックックックック……」

   渚は輝煬が詰め寄った歩数分、後ろに下がりながら答える。やっぱりどうしても渚は輝煬が苦手だった。嶺も苦手だが、輝煬のそれは生理的嫌悪感を伴っている。はっきり言って、話すのどころか側にいる事すら我慢ならなかった。

「(だめだぁ…ごめん、剣っ!)……あ、わ、私もう行くわ! 剣の追撃、頑張ってね!」
「おい待てよ渚ぁ……剣の居場所、知りたくねぇのか? 今ヤツが誰と一緒にいるか、とかなぁ? ……俺は知ってるんだぜぇ?」

   輝煬のその言葉に、【翔】で一気に翔び立とうとしていた渚は、はた、と動きを止める。

「なんですって? ……一体どうして?」
「クックック、コイツさ渚ぁ…。だからてめぇらは【占】を軽視し過ぎだってんだよ。俺の【占】にかかってわからねぇ事なんて、この世に存在しねぇのさ。」

   渚はゆっくりと振り返る。目の覚めるような青い巫女風の装束の中から、自分の【器】である500mlのペットボトルを取り出しながら。

「貴方……やっぱり、剣の所へやるわけには行かないわ。……ここで、死んでもらう。」

   渚はペットボトルの蓋を指で弾き飛ばすと、ゆっくりと胸の前に持ち上げて構える。輝煬は危険すぎる。いろんな意味で。
   輝煬の【火気】は剣の【金気】の相剋だ。逆に自分の【水気】は輝煬の【火気】の相剋である。自分が戦えばほぼ間違いなく勝てだろうが、剣はもしかしたらやられるかもしれない。例え剣の方が能力者としてのレベルが高かったとしても、相剋関係をひっくり返すのは容易ではないし、ましてや輝煬は【呪占家】出身者、なにか得体の知れない術を使って剣を陥れるかもしれない。

   しかし、輝煬は渚の脅しの言葉を聞いた瞬間、弾かれたように笑い出した。あまりにも激しく笑った為、輝煬の巨体ががくがくと震える。

「ハァッハッハッハッハッハッハハハハハハハハハッハッハッハハッハァッ!!」
「な、なにが可笑しいのっ!」

   あからさまな嘲笑を受けて渚の顔がサッと紅潮する。輝煬にここまで嘲笑われるとは、渚にとっては屈辱以外のなにものでも無かった。しかし、渚が声を張り上げても、輝煬はまだ笑い続けていた。涙目になるくらい笑い続けながら、輝煬は装束の懐から一枚の呪符を取り出して見せる。

「な、渚ぁ…てめぇはホントに甘々だなぁ! サッキもいったろ、クックックックック……『お前がつけて来んのが分かっていた』ってなぁ! 俺がなんの用意もせずにてめぇをただ待ってただけだとでも思ってんのか、ああ!?」
「な、なにをしたのっ、輝煬殿!」

   輝煬は今度はニヤニヤ笑いながら渚の質問に答える。

「コイツと対になってる呪符が俺の部屋にあってなぁ……俺がちょいと命令すりゃ、”翁”の所にさっき俺が【占】らなった結果を宿した呪符が翔んでいくって寸法よ。つまり、てめぇがここに来てるって事も、剣の居場所も、全て”翁”にモロわかり、ってワケさ……さぁどうする、渚ちゃん? クックックック……」
「なっ、なっ………!!!!」

   渚は絶句した。まさかさっき輝煬が部屋でそんな用意をしていたとは…!!

「残念だったな、渚ちゃん? 大人しく【山】に帰んな! じゃねぇと、のこのこ『掟』を破ってここまでやってきた事が全て”翁”にバレちまうぜぇ!」

   そうなのだ。「頭領の許可が無い限り、【山】から出てはならない」というのは【五行】の数多くある『掟』の内の一つだ。いかな渚が【水円】副隊長で”翁”の直属の部下であっても、通行証無しで【山】から出た事が発覚すれば、確実に厳しい罰が待っている。

「くっ………!!」

   渚は歯噛みした。悔しいが、どう考えてもここは引き下がる以外道がなかった。輝煬はそんな渚の様子を見て内心ほくそえんだ。輝煬の術中に、渚はまんまと引っかかってくれたのだ。

(これで俺はてめぇの弱みを握ったぜ、渚ぁ……【山】に戻った時が楽しみだぜぇ?クゥックックックックック……)

   胸中の考えは当然渚には告げずに、輝煬は踵を返して渚に背を向ける。渚は火の出るような強烈な怒りの視線を輝煬に向かって投げかけたが、そんな事をしてもなんの効果も上げる事は出来なかった。

「それじゃぁな、渚ぁ。俺は剣と会わなくちゃいけねぇのさぁ……そうすれば、傷だらけのボロボロの”あのヤロウ”と会えるみてぇだからなぁ!」
「ま、待って! ”あのヤロウ”っていったい誰なのっ!?」

   謎の言葉を残して翔び立って行く輝煬の後ろ姿に向かって叫ぶ渚。だが、返ってきたのは遠く響き渡りながら消えていく輝煬の嘲笑だけだった。

「アイツ…部屋でも似たような事を言ってたわね? 『傷だらけのボロボロの”あのヤロウ”』? ……ま、まさか!!」

   渚はハッと口に手を当てて、もう一度輝煬が翔び去って行った東の空の方を見上げる。

   そこにはただ、輝く無数の星達が煌いているだけだった。
 
 
 
 


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