【五行伝 ― 新緑の道標 ― 】
第二章 ― 決意 ―
7.
「俺は”南雲 彰介”。フリーライターっていやぁ聞こえはいいが、要はプータローみてぇなもんさ。……兄ちゃんの名前はなんてんだい?」
痛みと薬でぼうっとする頭で、燈火は窓際の椅子に腰掛けている男を見つめた。どうしてこういう状況になってしまったかは分からないが、自分が決定的なドジを踏んだ事だけは確かだった。まさか正体を悟られてはいないだろうが、一般人に助けられてしまうとは……。
(チッ、この俺様がこんなドジを踏むなんてな……何とか正体がバレないようにしなくちゃならないな…)
しだいにはっきりしていく頭の中で毒づく燈火。絶対秘密の存在でなければならない【五行】の者が、なんの用意もせずに特定の一般人の前に長く姿を晒し続ける等、今まででは到底考えられない事だった。
……”今まで”では?
(そうか……俺はもう【五行】のメンバーじゃないんだっけな……)
「おい、兄ちゃん? なんとかいいなよ?」彰介の言葉を聞き流しながら、燈火は下を向いて「フッ」と小さく笑う。今の自分は、【山】を『抜け』てきた上に、追手である”翁”にボコボコに負かされてしまっている身なのだ。しかも、”翁”が自分に完全に止めを刺さなかった所を見ると、どうやら自分は死んだと思われているのだろう。だとしたら今更『掟』の通りに身分を隠す必要がどこにあるというのか?
しかし、そういう燈火の考えとは裏腹に、次に彰介の口から発せられた言葉を聞いた途端、彼のまだぼんやりしていた頭は一瞬にして鮮明になった。
「オマエ……【五行】だろ?」
「!!」思わず声の主の方に向かって振り返ってしまう。燈火は、「【五行】」という単語が組織以外の人間の口から出るところを初めて聞いた。依頼主達ですら、「【五行】」という単語は出さずに、「貴方達」とか「お前等」とか、そう言う代名詞を使って話し掛けて来るものだった。
(コイツ、一体なんで知ってるんだっ!?)
「おいおい、その顔はやっぱり”ビンゴ”かねぇ?」燈火は当然の如く胸中の驚きを隠そうとしてはいたが、職業柄数多くの人間の数多くの表情を見てきている彰介にとっては、まるで燈火の顔が「私は【五行】の人間です。なんで貴方がそれを知ってるんですか?」と言っているように見えた。そして、ますます自分の憶測に対する確信を深めていった。
彰介は懐からタバコを取り出してニヤリ…と笑いながら火を点ける。そして、紫
煙を吐き出しながらこちらを黙って見つめ続ける燈火に向かって答えを促す。「おいおい、だんまりはねぇだろ? 何とか言えよ、兄ちゃん?」
「………………」彰介の泊まる部屋に敷かれた布団の上で上半身だけ起こしたまま、燈火は何も喋らずに、じぃっと彰介の目を見詰めていた。二人はしばらく無言で見詰め合っていたが、やがて彰介はフゥッと溜息を吐いて灰が落ちそうになっていた煙草を灰皿に
押し付けて消しながら言った。「兄ちゃん……いい加減なんかしゃべんなよ?」
「…………うるせぇ、オッサン。」燈火はイライラした口調で短く吐き捨てた。どうして彼が【五行】の事を知っているのかはわからなかったし、自分はもはや『抜け』の身だ。だからといって、ペラペラと秘密を喋る気には到底なれなかった。
「ほぅ、やっと喋ったな、兄ちゃん。で、兄ちゃんの名前はなんてんだい?」
「…………うるせぇっつってんだろ、オッサン。」そんな燈火の様子にニヤリ、と笑ってさっきの質問を繰り返す彰介に向かって、燈火も同じようにさっきのセリフを繰り返して答える。彰介は二度も”オッサン”と呼ばれた事にちょっとムッとして抗議の声を上げる。
「おい、兄ちゃん。俺は”オッサン”じゃねぇ。”南雲 彰介”っていう名前があるし、なによりまだ33歳だぜ。」
今度は燈火がその言葉に少しだけニヤッと笑って言い返した。
「フッ……そういうセリフは、そのキタナイ無精ひげを剃ってから言って欲しいものだな。」
「なっ!? か、可愛げのねぇガキだな〜」彰介は今度はあからさまにムッとした表情になる。2度もオッサン呼ばわりされた上にこんな事を言われれば当然の事だろう。三十路過ぎというのは特に年齢が気になるお年頃なのだ。飄々としているようにみえる彰介とて例外ではない。
燈火はそんな彰介の憤慨ぶりを見てまた少しニヤリとする。
(なかなか面白いオッサンだな。それに、【五行】以外の人と話をするのはめちゃくちゃ久しぶりだし。………そう言えば、このオッサンが俺を助けてくれたんだよな……。)
そうなのだ。どこで自分を見つけて、どうやってここに連れてきたのかは分からないが、あのダムの周辺に倒れたままだったら死んでいたかもしれない自分に暖かい布団をあてがってくれた。”翁”との戦いで傷ついた自分の身体はきちんと治療してあったし、点滴だって打ってある。
燈火は彰介の方をじぃっと見つめた。彰介も燈火のその何か言いたげな視線に気付き、言葉を促した。「どうした、兄ちゃん? なんか喋る気になったかい?」
「………オッサンがオレを助けてくれたのか?」初めて燈火の気持ちが分かるようなセリフを聞いて、彰介の顔が少し明るくなる。彰介は焦る気持ちを抑えてもう一度煙草を口に持っていくと、ゆっくり火をつけて煙を燻らせながら答えた。
「ああ。……ただし、俺はオッサンじゃねぇけどな。」
予想通りのその答えに、燈火は彰介から視線を外しながら小声で礼を言う。
「……すまない。」
「あ? なに??」彰介は意地の悪いニヤリとした微笑みを浮べながら聞き返す。本当は余裕で聞こえているくせに。燈火は彰介のその笑いを見て「チッ!」と思いながらも、少し顔を赤くしてもう一度礼の言葉を繰り返す。
「すまんって言ったんだっ」
(な、なかなか可愛いじゃねぇか……)彰介はニヤニヤ笑いながらそんな燈火の様子を見つめていた。最初は可愛げの無い生意気なガキだと思ったが、なかなかどうしてそれだけではなさそうだった。彰介は一旦燈火から視線を外して、煙草の煙をノンビリとした調子で窓の外に向かって吐き出す。それからもう一度クルリと燈火の方に向き直って言った。
「まぁ、『助けてやったから話せ』なんてこたぁ言わねぇよ。今はゆっくり休んでそのヒデェ傷を治しな。」
「すまない。……恩に着る。」燈火はもう一度短く礼を言うと、もう彰介の顔は見ずに横になった。見ず知らずの男だったし、まだ自分は名前すら名乗って居なかったが、燈火は彰介の事が好きになりそうだった。もちろん、聞いてもいないのに彰介が勝手にやっていた自己紹介で”フリーライター”だと言っていたし、【五行】という名を知っていた以上、自分を利用して【五行】の情報を引きだそうとしている事は間違い無い。
しかし、燈火はなんとなく感じていた。この”南雲 彰介”がその為だけに自分
を助けた訳ではない事を。彼が……信頼できそうな人間である、という事を。そんな事を考えながら、燈火はまた、深い眠りの中に落ちていった。極限まで削り取られた体力を回復させる為に、燈火の身体は睡眠を渇望していたのだ。横になった途端に襲ってきた強力無比な睡魔の力に抗う気力は今の燈火には無かった。
「フゥ〜〜〜……」
彰介はさっき点けた煙草の最後の一服をじっくり味わいながら窓の外に吐き出していく。思わぬ拾い物だったこの”若い男”との第一回目の邂逅はどうやら上手く行ったようだった。
(だが、これからだ……)
すでに規則正しい寝息を立てている若い男に聞こえないように小声で呟く彰介。
(必ず暴き出してやるぜ、【五行】……!!)
彰介はフィルターまで燃えそうな程に短くなった煙草を灰皿に押し付けながら、決意を新たにするのだった。
ヒュウウウゥゥゥ……
ここは、風が吹きすさぶ【山】の頂上。緑と燈火がこの場所から旅立ってから、ちょうど丸一日が経過していた。
頂上の崖っプチには、身長190cmはある筋骨隆々たる大男が仁王立ちしてい
た。男は、これから始まる追跡劇にその歪んだ心を躍らせながら、首を左右にポキポキと鳴らしている。「お前の居場所はもうわかっちまったからなぁ…逃がさねぇぜ、剣ぃ……」
輝煬は懐から数枚の呪符を取り出して、再度占いの結果を確認する。鮮やかな紅い色の呪符の数々には、それぞれ異なる幾何学的な模様が黒い線で描かれている。内容は【占】の能力者でないと理解出来ないものだったが、恐らく剣の居場所を占
ってあるのだろう。「どこに潜んでいようと、この俺様から逃れる事はできねぇんだよ、クックック…」
輝煬は押し殺した下卑た笑いを上げながら、呪符を懐に仕舞い込んだ。それから、東の方角へと向き直ると、指をバキバキ鳴らしながら沈み込んだ体制を作る。
「さぁて、それじゃ行くかぁ?……【翔】!!」
輝煬の巨体がふわりと宙に浮かび上がる。それはあまりにも不自然な光景に見えた。
しばらく上昇を続けた後、輝煬は一気に加速して、東の空へと翔び去っていった。
「……ふぅ。じゃぁ私も行こうかなっと。」
頂上から輝煬が翔び立った直後、通路から渚がその長い髪を揺らして現れる。仰ぎ見ると、東に向かって翔んでいく輝煬の姿がどんどん小さくなっていくのが見えた。
ふと、渚は通路の出口に立っている見張り番の所で立ち止まった。
「な、なにか?」
渚は妖艶とも言える微笑みを浮かべながら、見張りの隊員に体を近づけていく。そのまま、ドキッとしたような表情を浮かべたまま額に汗を浮かべている見張りの隊員の頬に、ゆっくりと指をなぞらせる。
「……私が出ていった事、内緒にしておいて欲しいんだけどな……」
「い、いやあの…な、渚殿?……し、しかしですね……」渚の指は、見張りクンの顎の所まで降りて来ると、そのまま彼の口を塞ぐように立てられた。そして、微笑みを絶やさずにパチッとウィンクしてみせる。
「ね…… お・ね・が・い・よ♪」
「は、はいっ……わ、わかわかわかわか…わかりましたぁっ!」なぜかビシッ!と気を付けの姿勢をとって敬礼する見張りクン。渚の色仕掛けに完璧にやられてしまっているようだ。
そんな見張り番の様子に渚は「クスッ」と微笑うと、クルリと振り返かえりながらひらひらと手を振って見せる。「じゃね♪ 行って来るわ…… 【翔】!!」
渚がゆっくりと空中に浮かび上がると、長い黒髪が風を受けてふわふわと踊る。見張り番の隊員はホレボレとした表情でその様子を眺めていた。渚は空中からもう一度見張り番に向かって手を振ると、一気に東の空へ向かって加速して行った。
ゴ…オオオッ!!!
輝煬の姿はもう豆粒ほどの大きさになってしまっていたが、まだ追跡出来ない程の距離ではなかった。ましてや輝煬より能力も高く、遥かに体重も軽い渚の事。つかず離れずの距離を保って輝煬を追撃する事など、造作もない事だった。
(まったく、どうしてアンタは私に心配ばっかりかけるかなぁ、剣……)
勝手に輝煬を追撃しているくせに、心の中で剣の所為にしてぼやく渚。
(アイツ、上手くやってるのかしら?)
世話の焼ける弟の事を想いながら、姉は漆黒の夜の闇の中を駆け抜けていった。
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