【五行伝 ― 新緑の道標 ― 】
 
 
 

第一章 ― 逃避行 ―
 

10.
 

「あ、あれはっ!【轟波】!!!」

   遥か彼方に見える湖。その上に、通常なら存在するはずもない巨大な津波が見えた。側に行けば大きいであろうその湖がまるで小さな池くらいにしか見えないこの距離からでも、ハッキリとその姿を認識する事が出来るほど、その津波は巨大だった。あんなものを生み出す事が出来るのは【五行】で――いや、この世で唯一人しかない。

「”翁”……!!」

   そう呟くと、剣は高度と速度を一気に落とし、静かに湖に向かって近づいていった。今”翁”に見つかるわけにはいかない。”翁”は剣に追撃を命じてはいないのだから、ここで見つかってしまったら”翁”と共に【山】へ帰る以外無かった。

   剣は、はやる気持ちを押さえて、ゆっくりと目立たないように、そして片時も湖の上に浮かぶ人物から目を離さずに翔んで行った。
 
 
 

「フォ……フォフォフォフォフォフォフォフォッ!!」

   ”翁”は笑いが止まらなかった。自分が翔んでいる高さよりも【轟波】の大きさの方が圧倒的に大きかったので二人が飲み込まれていく様は見られなかったが、燈火のあの傷だし、第一元々【翔】のスピードよりも津波の方が圧倒的に速いのだ。大津波が二人を捕らえた事は確実だった。

ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドガアアアアアアアッ!!!!!!!

   巨大な津波は二人を飲み込んだであろう地点を過ぎてもその勢いをまったく衰えさせることなく、崩れ落ちて水面で跳ね返り、荒れ狂い、白く泡立つ波涛となって一ノ瀬ダムの堰に襲い掛かる。運悪く、ちょうど堰の上で山並みから登る夜明けを見ていたカップルの乗る赤いスポーツカーをまるでミニカーかなにかの様に高さ百数十Mの堰の向こう側へと押し流す。凄まじい水流の勢いは留まる所を知らずに、堰の上にある監視用の建物群の窓に無数の亀裂を生じさる。なおかつ建物群の内の小さなものを根こそぎ引き抜いて堰の下へと叩き落とした。

カッ!ドッガァアアアアアァァァァァァンッ!!ズドドドドドドドドドッ!!!!

   遥か下方のコンクリートのダムの基礎に叩き付けられたスポーツカーが爆発する。しかし、次の瞬間にはその上から大量の水が襲い掛かり、一瞬にして炎を消し止めた。その上から見るも無残にひしゃげた建物の残骸が次々に落下していった。

ドドドドドドドォ……・……。

   そして、”翁”が生み出した【轟波】の波は遥かに響く轟音を残して、ダムの下流へと流れ去っていった。

「フォフォフォフォフォフォフォフォフォッ!!!」

   津波が遠方へと去っていっても、まだ”翁”は笑い続けていた。”翁”の瞳にはすでに【轟波】を発生させる前と同じように静かになった湖面は移ってはいなかった。狂気を孕んだその瞳の奥には、14年前の”あの事件”がフラッシュバックしていた。
 

『”翁”…いえ、お父さん! 貴方のやり方は間違ってるわっ!!』
『栞……オヌシと言えどもゆるさんぞ……』
『義父さんっ!栞と緑に手は出させませんよっ!』

『ぐあああああああっ!!』
『きゃああああああっ!!』

『お父さん……お願い……もう…こん…な…こと…………』
『栞……しお…り?  ワシは…ただ…オヌシに戻ってきて……オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!』
 

「フォフォフォフォフォフォフォフォフォッ!そうじゃ!ワシはあの時全てを捨てた!!!」

   ”翁”は瑠璃色の装束の裾をフワリと翻して、ダムの堰と輝く朝日に背を向ける。白く長い眉毛と髭に大部分を覆われたその顔は、朝日を背にした事によって暗い影のみとなった。

「緑、オヌシはやっぱり栞の娘だった……ただ、それだけのことじゃ。ただそれだけの……!」

   そう言い残して、”翁”は【翔】で翔び去った。

   まるで鏡のように静かになった一ノ瀬湖の湖面は、昇り切った太陽の光を受けてキラキラと輝いていた。
 
 
 

「”翁”…!!」

   剣がしばらく低速低飛行を続けていると、湖の上でじぃっと【轟波】が炸裂する様を眺めていた人物がこちらに向かって翔んでくるのが見えた。剣は素早く地面に着地すると、近くの大木の影に身を潜める。

シュィッ!

   ”翁”は剣には全く気づかずに、瑠璃色の装束を風になびかせて凄まじいスピードで西の方角へと翔び去って行った。

   剣は、”翁”が小さな点になるまで気配を殺しながら注意深く見守っていた。そして、”翁”が完全に見えなくなってからも数分間、そこに留まっていた。

   やがて、”翁”の気配がまったく感じられなくなると、剣は今度は一気に一ノ瀬湖へ向かって翔び立った。

「緑っ!!緑ーーーーーっ!!!!」

   一ノ瀬ダムの湖面に、岸に、堰に、そこらじゅうに生々しく残っている【轟波】の爪痕。

   岸辺の木々の枝は全ての葉を失い、幹はなぎ倒され、根こそぎ引き抜かれている。叩き付けられた大木がコンクリート製の堰に巨大な亀裂を生じさせている。湖の上には信じられない程の数の木々達がまるで死骸のようにぷかぷかと浮かんでいる。堰の上の建物も酷い状態だった。剣はその爪痕の中を狂ったように翔びまわり、緑の姿を探した。

(いない…いない……!)

   岸を。堰の上の道路を。建物の中を。湖面を。剣は翔んで、翔んで、翔んで……。

   自らの愛する少女の姿を探した。

(緑……緑……緑……!!)

   剣は心の中で何度も何度も緑の名前を呼んだ。”翁”の【轟波】の残した強烈な爪痕は、彼の心に最悪の可能性を何度も何度も繰り返し浮かび上がらせた。
   しかし、彼は翔び続けた。探し続けた。力の限り。

   そして……ついに、彼は見つけた。

   湖面に漂う木々の死骸達の一つに、まるでその枝に抱かれるように、緑はぐったりと寄りかかっていた。

「緑っ!!!!」

   剣は緑を抱き上げて空へと舞い上がった。湖に浸かっていた所為か、その体はまるで死んだように冷たい。いや、ま、まさか……!!

「緑…緑……!」

   剣は腕の中の少女に向かって何度も何度も呼びかけた。呼びかけながら、口の前に耳を持っていく。

   息が……ある!

「ん……」

   そう思った途端、緑が苦しそうに声を上げ、身を捩った。

   よかった、生きている!

「緑!よかった、よかった…!!」

   剣は嬉しさのあまり目眩がした。緑が生きていた…あの巨大な【轟波】を食らって。しかし……一体どうやって?

「ん……燈火……とう……か…」
「!!」

   緑が切れ切れに自分の親友の名を呼んだ時、剣は全てを理解した。親友が命を賭して緑を守った事を。同時に、血が逆流するほどの嫉妬と悔しさの念が彼の胸の中に湧き起こる。

「燈火……!どこだぁっ!!!、燈火ぁぁぁぁあああああああああっ!!!!」

   剣が上げた叫び声は、一ノ瀬湖の広い広い湖面を渡っていった。

   答えるものは、誰も居なかった。

   ……そう、誰も。
 
 
 

To Be Continued NEXT CHAPTER ……
 
 


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