【五行伝 ― 新緑の道標 ― 】
 
 
 

第一章 ― 逃避行 ―
 

9.
 

   ここは、【山】の最下層。

   【五行】メンバーが住む居住区よりもさらに地下。

   【土】の能力者達の部隊、【土流】の詰所である部屋の奥にある執務室。

   重厚な机に向かって、鳶色の【五行】装束に身を包んだ一人の男が顔の前に腕を組んで表情を隠しながら、静かに椅子に腰掛けていた。

チャッ。

「…どうしたんや?」
「申し上げます、嶺様。……どうやら好機が訪れたようですよ。」

   扉を開けて入ってきた【土流】の隊員を顔の前に組んだ手を解いて見つめながら、男――【土流】隊長、武田嶺(たけだ りょう)は、その糸目をさらに細めて先を促した。

「言うてみい。……なにがあったんや?」
「”翁”の孫娘、緑が【炎角】隊長の燈火と連れ立って、この【五行】から『抜け』ました。」
「ホゥ……おもろいやないか。緑と燈火クンが『抜け』たか……。そいつはこれから色々と忙しくなりそうやで……。」

   そう言いながら嶺は口の端をニィッ……と引き上げて冷笑う。報告に来たその【土流】メンバーにとってはいつも見ている冷笑であったが、何度見ても心の奥底を氷の様に冷たい手でギュッ!と握られた様な気分にさせられる。

「ハ…ハハハッ!”どうやらアンタの治世ももうすぐ終りみたいやな!覚悟しとれよ、”翁”ぁっ!!ハハッハハハハハハハハハハハハハハハハハァッ!!」

   ランプの灯りすらない真っ暗な【土流】詰所の中。

   嶺の血も凍るような笑い声が、いつまでもいつまでも響き続けていた。
 
 
 

「あっちか……!」

パシャッ……

   剣は八角形の風水羅盤を水の流れの止まった小川の淵から拾い上げた。”風水羅盤”とは陰陽術の占いに使う道具で、様々な用途に応じた占いに使用する事が出来る。この場合、剣は風水羅盤を緑、燈火、”翁”の三人の居る方角を知るために使用したのだった。

   懐に風水羅盤を収めると、剣はまた【翔】で尖った黄色い光を放つ朝日の方向へ向かって翔び立っていった。

「もう少しだ……もう少しで追いつけるはずだ……」

   風水羅盤の占いは、緑達三人との距離がかなり近い事を告げていた。この分ならば、後数十分で三人に追いつけるはずだった。

「緑……待ってろよ……!」

   高速で飛翔しながら、剣は緑の面影を思い浮かべる。

   いつも笑っている緑。元気一杯に修行に励む緑。燈火の側で照れながら微笑む緑。

   ……そして、初仕事で傷つき、大粒の涙を流す緑。

「俺が、その涙を微笑みに変えてやる……」

   剣は小声でそう呟くと、三人の居ると思われる東の方角に向かって一心不乱に翔び続けた。
 
 
 

「燈火……」

   緑は水面下から燈火と”翁”の闘う様を見上げていた。

(――俺が、今から”翁”の視界を一瞬遮る。そうしたら、オマエは【木気】の風の結界を張って湖の底に向かって全力で潜れ。影響の少ない深い水中で、【轟波】をやりすごすんだ――)

   燈火にそう言われた通り、風の結界に守られているので、湖の水は緑の体を濡らしてはいない。しかし、緑が止めど無く流す涙は頬を伝って零れ落ち、彼女の服のあちこちを小さく濡らしていた。

(――俺が、【轟波】が崩れ落ちる瞬間まで、”翁”の気を逸らし続けるから。いいか、そのままずっと隠れているんだぞ――)

   このまま湖の底に潜っていれば、恐らく”翁”の【轟波】に巻き込まれる事はないだろう。そして燈火が”翁”の気を逸らし続けてくれれば、”翁”は緑が巨大な津波に飲み込まれて息絶えたと思うに違いない。

   しかし、燈火は?このまま”翁”と闘い続けて燈火が無事でいられるはずが無い。

(――約束だ、緑。必ず――)

「お願い、燈火…死なないで……!」

   呟きながら緑は胸の前に組んだ手にギュッと力を込めた。

   緑の瞳には、今まさに燈火が【焔牙】を構えて”翁”に切りかかっていく様が映し出されていた。
 
 
 

  「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!」

   燈火が必殺の気合を込めて”翁”に向かって燃え盛る炎の剣を振るう。先刻、柊吾と闘った時の【木気】に生かされた【焔牙】程では無いが、燈火の決死の決意は今までにない威力をその【焔牙】に与えていた。

バシュアッ!!

   しかし、それでも”翁”の周りに展開する【円水】を突き破る事は出来なかった。それどころか、その薄い水膜の表面に接触する毎に、燈火の【焔牙】はどんどんその力を失っていくだけだった。

「おおおおおおおおおおおおっ!!!」

バシュッ!バシュッ!バシュッ!バシュッ!バシュッ!

   それでも燈火は切り続けた。自らの炎によって”翁”の水の結界をを突き破るという絶望的な結果を期待して、では無く。

ただ、”翁”の気を緑から逸らすために。

   しかし、次第に短くなっていった燈火の持つ炎の剣は、十数回の【円水】との接触の末、完全に消滅してしまう。

「クッ!!」
「フォッフォッフォ、燈火……ワシはそろそろオヌシと遊ぶのにも飽きた。…死ぬのじゃ。」

   ”翁”は【焔牙】を消失させられて再度間合いを取り直した燈火に向かって、抑揚の全くない冷酷な声で死を宣言する。そして”翁”が小声で二言三言【言霊】を唱えた瞬間、彼のすぐ背後に迫っていた【轟波】から無数の【水槍】が飛び出して来た。

「うわあぁぁぁあああああああっ!!!」

   その鋭い水の槍は、まるで蛇の大軍のようにその身をくねらせながら四方八方から燈火へと殺到する。再度発生させた【焔牙】によってその内のいくつかを叩き切った燈火だったが、その程度で全ての【水槍】を躱し切れるはずも無かった。

ッドドドドドドドド!!!!!!

「ぐ……あぁっ!?」

   燈火の足に、手に、胴体に突き刺さった水の槍は、その役目を終えて元の唯の水となって燈火の傷口から流れ落ちる。その水は、傷口から溢れ出した燈火の血と交じり合って赤い流れとなる。……その様は、まるで燈火の体の中から全ての血が流
れ出していくかのように見えた。

「が…はっ……!!」

   燈火が鮮やかな赤い血を吐いて喀血する。その様子を見た”翁”はニタァ……と口の端を持ち上げた。

「さらばじゃ……燈火。」

   そのまま、”翁”の体は背後から凄まじいスピードで迫ってきていた【轟波】の中にまるで溶け込むように消えていく。巨大な津波は、”翁”がまるでそこにいないかのように彼にだけは何の力も加えずに素通りして、全身から血を流し続ける燈火を上から飲み込んだ。そして鎌首をもたげたその巨大な体を一気に崩れ落としていった。

ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドッ!!!!!

   ……しかし、【轟波】に飲み込まれるその瞬間、血塗れになりながらも確かに燈火は微笑んだ。

   それは、自分の力で好きな女を守り切る事が出来た男にしか、作り出す事の出来ない、満足げな微笑みだった。
 
 
 

「とっ、燈火ぁっ!…ぁぁぁぁぁぁああああああああああああああっ!」

   湖の中から、燈火が【轟波】に飲み込まれる瞬間を見ていた緑は、愛する男の最期に絶叫を上げた。あまりにも力を入れすぎた為に、胸の前に組んだ手のひらに爪が喰い込み、ツツ…と血が流れ落ちる。枯れる事の無い涙が後から後からその大き
な目から零れ落ちる。

「ひっく…とうか…とうか……とうかぁっ…………」

ズズズズズ……!!!

   しゃくりあげ、燈火の名を何度も何度も呼ぶ緑。悲しみに暮れている緑は、周りの水の流れが変わったことに気づかない。燈火の姿を見る事に夢中になって水面に近づきすぎたのだ。【轟波】の力は凄まじいうねりとなって結界ごと緑を巻き込んでいった。

「きゃ…きゃぁあああああああああああああああっ!!!!」

   凄まじい勢いの水流に巻き込まれて精神集中の乱れた緑の風の結界が歪む。力の弱くなった結界を、【轟波】の水流が容赦無く叩き付せ、捻じ曲げ、弾き飛ばす。

ドドドドドドドドドドド………。

   そして、彼女の意識は暗転していった。
 
 
 
 


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