【五行伝 ― 新緑の道標 ― 】
 
 
 

第一章 ― 逃避行 ―
 

2.
 

   【山】の中腹より少し下ったところに、天然の泉があった。その側には古い庵が建っていた。庵の中には一人の老人が瑠璃色の服に身を包み、年不相応の背筋をピンと伸ばした姿勢で正座していた。蝋燭のゆらゆらと揺らめくほの暗い明かりの中で、彼は書物を読み耽っていた。

   と、その時ゆっくりと庵の入り口、老人の正面の障子が開いた。両膝を突いた姿勢でススッと庵の中へ入ってきたのは、目の覚めるようなブルーの巫女風の衣装に身を包んだ、艶やかな女性だった。

「失礼致します。」
「…渚か。どうしたのじゃ、こんな時間に?また【水円】のボンクラ共の修行中に死人でもでたかの?」
「いえ、そうではございません。誠に申し上げにくいのですが…」

   そう言うとその女性――”前田 渚(まえだ なぎさ)”は驚くほど長い睫を伏せて言葉を濁した。

「申せ。」
「ははっ。実は…燈火と緑が……『抜け』ました由にございます。」

   渚は、正直言ってこの事を報告に来る事が最初からかなり気が進まなかった。この老人――暗殺者集団【五行】の頭領である”翁”は、ただでさえ戒律に非常に厳しい人物であったが、事『抜け』に関しては、憎悪とも言うべき感情を抱いている事を知っていたからだ。

   燈火と緑が『抜け』た。この事実を告げた瞬間、渚は”翁”が烈火のごとく怒り出す事を予想していた。そして、その予想を確認するために一瞬、顔を上げた。

  が、甘かった。

   渚は、女だてらに【五行】の五部隊の内の一つ、【水円】の副隊長をつとめている。そこら辺の男共に比べれば十二分に肝も据わっているし、「能力」だって頭領兼【水円】隊長の”翁”を除けば、【水】の能力者の中では最強と言ってよかった。
   いままでの暗殺者としてすごした時の中ですら、恐怖というものもあまり感じた事は無かった。

   しかし、その時渚は心底脅えた。

   ”翁”は別段怒声を上げたわけでも、怒りに身を震わせたわけでもなかった。しかし、渚には”翁”の体から吹き出す怒気でまるで”翁”の体の表面が揺らいだかのように感じられた。それはまるで、確実なる噴火が予想された巨大な火山を思わせた。…そして、渚は見てしまった。”翁”の目を。

  「そうか…緑と燈火が……『抜け』た、か…」

   静かに…あくまで静かにそう言った”翁”の目には、見る者を奈落の底へと突き落とすような、どす黒い狂気の色が宿っていた。
 
 
 

  向かい合う二人の「能力者」達の声が重なった。

『オン!!』

   柊吾は両手を素早く空中に走らせて【印】を刻む。燈火は柊吾の【技】が発動するよりも速く、その手に持った炎の剣――【焔牙】で彼を切り裂くべく肉薄した。
 

   柊吾の操る【木気】の技には近距離格闘用のものは存在しない。その代わり、中長距離の単体〜少数の者への攻撃には非常に適していた。先ほど洞窟に孔を穿った【気弾】がその良い例だ。
   対する燈火の【炎気】の技で中距離攻撃が可能なのは、大量殺傷を目的とした技の【爆炎】と、それから【気弾】にはスピード、威力ともに劣る【火弾】しか無かった。

   燈火が肉弾戦を選んだのは当然の選択だった。
 

「フッ!」

   燈火が炎の剣【焔牙】の間合いに入った。しかし、燈火が柊吾を切り裂くよりも速く、柊吾の【印】は完成していた。同時に、柊吾の口から信じられないほどの早口で【技】を発動させる【言霊】が紡がれていった。

「【木気】のもの、大気の精霊よ。我が命に応えよ。其の身をいと鋭き刃と成して、我が怨敵を疾く滅ぼす為り!」

  柊吾の周囲の空間が一瞬歪んだように見えた。必殺の真空の刃=【空牙】が、怨敵――すなわち燈火をその凶悪な殺傷能力でなますにするべく放たれたのだ。

「クッ!?」

   焦りの色をその顔に浮かべながらも燈火は真空の見えない刃を【焔牙】で切り裂いた。しかし、やはりその場で足を止めざるを得なかった。その隙を見逃す柊吾ではなかった。

「もらったぞ、燈火!」
「【木気】のもの、大気の精霊よ。我今汝に命ず!我が掌に集い来て、其の身を礫と成せ!彼の者を打ち倒すべく疾く馳せよ!!」

    柊吾は、燈火の剣の間合いから後ろに飛び出しながら【印】を切りつつ【言霊】を紡いでいった。それらが完成するのと同時に、圧縮空気の10発の弾丸が一斉に燈火に向かって放たれた。空牙】によって足止めされている燈火に向かって収束していく弾丸達を見て――常人には見えないが、【木】の能力者にはそれが見える――柊吾は勝利を確信したようにニヤリと笑った。

   が、その微笑みは次の瞬間には霧散してしまっていた。

   燈火は【焔牙】でまるで体の回りに円のような軌跡を描いた。同時に左手で素早く【印】を切りつつ、早口で【言霊】を紡いでいく。

「木生火。汝、【木気】のものよ。我が炎に集まり参じて、我が力の糧とならん!」

   燈火の【印】と【言霊】の力によって、10発の【気弾】は尽く【焔牙】の中へと吸い込まれていった。そして、1発【気弾】を取り込む毎に燈火の【焔牙】が巨大化していく。柊吾は呆然とその光景を見つめていた。

「な、なにぃっ!?」

   燈火の策略は完璧だった。わざと隙を見せて【空牙】よりも数の多い【気弾】をを柊吾に撃たせ、その全てを【焔牙】に吸収する事により、燈火の【炎気】の能力を爆発的に高まらせたのだ。

「フッ…柊吾。誰が何をもらったんだ?」

   燈火は人を小ばかにしたような微笑みを浮べると、その巨大化した【焔牙】を一気に振り下ろした。

「くぅっ!?」

   橙色の輝く軌跡を残して一閃した【焔牙】をとっさに避けようとした柊吾だったが、さすがに躱し切れなかった。そのサイズとともに威力も増大していた燈火の【焔牙】は、掠っただけで柊吾の右肩から先の服を燃え上がらせ、重度の火傷を負わせていた。

「がっ!ぐぁああああっ!!」
「……勝負あったな、柊吾。”相生”の関係にある【木気】の者が【炎気】の者に勝てるはずがないだろう?」
「やったぁっ!燈火、強いゾっ!!」

   燃え上がる服の襟を破り捨てて、苦痛に顔を歪ませる柊吾に向かって、燈火は髪を掻き上げつつニヤリと笑いながら言った。その後ろではあまりの二人の戦闘の凄まじさに傍観者になるしか無かった緑がぴょんぴょん跳ねて喜んでいたりする。

   しかし、緑のその様子を見て、戦意を喪失しかけていた柊吾の顔が見る見る憎しみの色に染まっていった。

「燈火ぁ…まだまだ…まだまだだっ!」

   叫びと伴に通常両手でなくては切れない【印】を片手でムリヤリ切りつつ、右腕の苦痛を堪えながら出来る限り早口で【言霊】を紡ぎ出す柊吾。

「【木気】のものよ、雷の精霊よ!汝の住処たる黒雲を伴いて来れ!汝の敵は彼の者為り!我が召喚に応えて雷光と雷鳴と共に天空から駆け下ら……」

   しかし、ノンビリと技の完成を待っている燈火では無かった。片膝をついたまま技を発動させようとしている柊吾との間合いを一瞬にして詰めると、そのまま超高速の蹴りを柊吾の顎に叩き込んだ。

ドカァッ!!!

「ぐぅっ!」

   【龍】を抜かせば【木気】の技中、最強の攻撃力を誇るである【雷覇】。【言霊】と【印】が唯でさえ複雑で長いものなのにも関わらず、今の柊吾は片腕が火傷によって動かない状態にある。しかも、その痛みは確実に柊吾の舌の回転をも遅くしていた。

   そんな状態で技のみに集中していた柊吾を倒す事など、燈火にとってはたやすい事だった。

「……悪く思うなよ、柊吾。オマエが往生際の悪い所を見せるからいけないんだぜ?」
「あーあ、ここまでやらなくてもいいのに…燈火ってば鬼だねっ」

   トトトッと燈火の側に駆け寄ってきた緑が呆れ顔で言う。確かに柊吾はひどい状態だった。右肩から先は肉が爛れるほどの大火傷。顎を蹴り上げられたため、口と鼻からはだらだらと血を流して完全に気を失っていた。

(まぁ、でも殺しちゃわない所が燈火の優しさなんだけどね♪ウチの中ではそれが普通なのに…)

   緑は心の中で「フフフ♪」と笑った。そして、緑の半分責めるようなセリフに燈火はちょっとすまなさそうに柊吾の方を見やって言った。。

「ふ、フン! ヤツが俺より弱かったからああなった…それだけの話だぜ。」
「もう!……ゴメンね、柊吾。でも、もうちょっと大人しくしててね。」

   そう言うと緑は懐から透明な小さいケースに入った鉢植えの植物を取り出した。

「【木気】のものよ、緑の精霊よ。我が声に応えよ。其の身を彼の者を縛る戒めと化せ。」

   ごく簡単な【印】と【言霊】に応じて、【木気】の技の内の一つ、【枝縛】が発動する。小さな植物はケースの蓋を抉じ開け、見る見るうちに柊吾の腕を後ろ手に縛り上げた。気絶してはいるとはいえ、傷ついた腕を縛り上げられると、柊吾は顔を苦痛に歪ませて小さくうめいた。

「……さて、と。次はオマエ等の番だぜ?」

   ”自分達の番”といわれて、それまで呆然と二人の戦いの様を眺めていた【木壑】の隊員達の顔が蒼くなる。口々に「ひ、ひぃっ!」「燈火様、お許しをっ!」などと言いつつ逃げようとする。

「遅い。」

   しかし、それをみすみす見逃す燈火では無かった。あっという間に四人の周りへ回り込み、次々と当て身で気絶させていく。しかし、最後の一人だけは【翔】を使ってすでに燈火の間合いの外へ逃げていた。

「チッ…【翔】…」
「待って、燈火。ボクに任せといてよ♪」

   【翔】で後を追おうとした燈火の片に手を「ポン♪」と置いて緑が言う。そして先ほどの柊吾に負けないほどの素早さで【印】と【言霊】を完成させた。

「【木気】のもの、大気の精霊よ。我今汝に命ず。我が掌に集い来て、其の身を礫と成せ。彼の者を打ち倒すべく疾く馳せよ。」
 

   緑の【気弾】は過たず逃げようとした【木壑】隊員の後頭部に直撃した。その一撃で気絶してしまったのか、ひるるる〜という音が聞こえてきそうな具合で落ちていく。

「ゴメンね、森クン。手加減はしておいたからさっ」

   緑はウィンクをしながら落ちていく隊員を片手で拝んだ。

(……手加減してても、あの高さから落ちたんじゃぁ死んじまいそうだけどな。)

   と思った燈火だったが、緑がまた膨れそうなので口には出さなかった。
 

   ともあれ、燈火の当て身で気絶した隊員達も緑の【枝縛】で縛り上げ、燈火と緑はお互い顔を見合わせた。

「フッ…緑、ここから翔べば、もう後戻りはできないぜ?」
「もうとっくに後戻りなんて出来ないよ。行こう、燈火!」

   頷き合う二人。そして、燈火と緑の声が重なった。

『【翔】!!』

   二人の体が一気に上空へと浮き上がる。そして、そのまま東の方向へと飛び去って行った。

「緑…とう…かぁっ…!」
 

   辛うじて意識が戻った柊吾だけが、二人の長い長い逃避行への旅立ちを見送っていた。
 
 
 

「申し上げます!燈火様と緑様、柊吾様を退けて【翔】で東の方向へと飛び去った由にございま……!」

   どれくらいの時間が経ったのだろう?”翁”の庵に伝令の者が燈火と緑の『抜け』の状況を報告に来た。それでもまだ、渚は”翁”の怒りの迫力に金縛りになったように顔を上げられずにいた。伝令の者もまた、”翁”の怒気にあてられて凍り付いたようにその場に立ち尽くした。

「ワシが…出よう。」

   それまでじっと座したままで信じられないような怒気を噴き上げ続けていた”翁”だったが、スッと立ち上がって静かに言った。

「緑…燈火…。これが、ワシの運命なのじゃろうか…?」

   ”翁”の呟きは、渚にも、伝令の者にも聞こえなかった。

   そして、泉の水に小さな波紋を残して、”翁”が翔び立っていった。

   庵には、未だ平伏したままの渚と、伝令の者が残された。そして、揺らめく蝋燭の炎だけが彼等をほの暗く照らし続けていた。
 
 
 
 


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