【五行伝 ― 新緑の道標 ― 】
 
 
 

第一章 ― 逃避行 ―
 

4.
 

「なぁに、おジィちゃん?」
「緑。」
「ん?」

   緑は首を傾げて聞き返す。ここは、泉の側に佇む、”翁”の庵。いつものように腰をピンと伸ばして正座する”翁”の前に、緑はチョコンと座っていた。
   ”翁”はそんな緑に向かって厳しく、ハッキリと言った。

「”翁”と呼べといっとるじゃろ?」
「……ウン。わかりました、”翁”。なんですか?」
「話というのは他でもない。オヌシももう15じゃ。この間の武芸大会でも優勝しておる。」

   ”翁”は老人特有の持って回った言い方で話を始めた。

「いままでも、能力については申し分なかった。足りないのは年齢だけじゃったが、
この前の誕生日で15になったことじゃし……。そこでじゃ、オヌシに”初仕事”を任せようと思うのじゃ。」
「!!」

(ついに…このときが来ちゃった…)

   ”翁”の言葉を聞きながら緑は思った。”仕事”は間違いなく”暗殺”だろう。ボクに、それが、出来るだろうか?ボクのこの手で誰かを、殺す。…しかし、【五行】で生きていく上では、必ず、やらなければならなかった。”翁”から命じられた”暗殺(しごと)”を拒否する事は決して、許されない。

「よいな、緑。」
「ウン…いや、ハイ、”翁”。」

   ”翁”の言葉に緑はその黒目がちの大きな目を伏せたまま頷いた。

  ”翁”の緑を見る目…話し方は、とても祖父が孫に対してするものではなかった。これは今に始まった事ではなく、緑の覚えている限り”翁”は常にそうだった。両親の顔すら覚えていない緑にとって、”翁”はたった一人の肉親だったのにも関わらず、緑が”翁”から肉親の愛情というものを感じた事は、今まで殆どと言っていい程無かったのだ。

(どうして…どうしておジィちゃんはいつも…?…どうして?)

   心の中で「どうして」を繰り返しながら、緑は泣き出しそうなのを堪えるので精一杯だった。そんな緑の気持ちを知ってか知らずか、”翁”は相変わらずの冷たい視線で頷いた緑を見やって、それからおもむろに庵の奥に向かって声をかけた。

「それでじゃ、”目付”はコヤツに頼もうと思っとる。…入れ。」
「…失礼します」
「!……剣…なの?」

   入ってきたのは身長180cmは裕に超えるスラッとした長身の男だった。無造作に伸ばした柔らかそうな黒髪を肩の少し下辺りでこれまた無造作に縛っている。男なのに”細面”という表現が良く似合う。切れ長の鋭い目。【五行】五部隊が一、【金欒(きんらん)】隊長――”前田 剣(まえだ つるぎ)”だった。

「…よろしくな、緑」

   そう言うと剣はぶっきらぼうにプイ、と横を向いた。

   初仕事の”目付”がこの無愛想な男だった事に、緑はかなり救われていた。彼女はこの剣という男を実は燈火の次くらいに気に入っていた。彼の内面が外見通りでは無いという事を、燈火にくっついてばかりいる緑は良く知っていたからだ。

   剣と燈火は不思議と仲が良かった。剣の方が燈火より7歳も年上なのにも関わらず、二人は不思議とウマが合った。二人でいる所を見ていると、どちらが年上なのか良く分からなくなってしまう。と言うのも、燈火といるときの剣は、普段の物静かで何を考えているのか良く分からない無表情さが少し影を潜め、少年の様になってしまうからだった。二人は良くじゃれ合うように、しかし真剣に一緒に修練していたっけ。

   だが、”翁”の側に佇む今の剣は、いつもの無表情な剣だった。それでも緑は”翁”と二人っきりでこの暗い庵の中にいるよりも千倍ましだ、と思った。

   ”翁”は出てきた剣の方を一瞥すると、緑の方に向き直って言った。

「”仕事”ついての詳細は全て剣に知らせてある。これからすぐに行くのじゃ。」
「…ハイ、”翁”。」

   有無を言わさぬ”翁”の言葉に、またも緑は哀しい気持ちになり、力無く答えて立ち上がった。「失礼しました」と小声で言うと、のろのろと庵を出ていった。そんな緑の後続いて、剣も小さく会釈をすると、庵を後にした。
 

   庵に一人残された”翁”は誰に聞かせるとも無く、呟いていた。

「ワシの選択は正しかったハズじゃ…。緑、それを証明してみせるのじゃ…。」

   その呟きを耳にしたものは、誰一人いなかった。
 
 
 

(おジィちゃんなんて…大っ嫌いだっ!)

   緑は心の中で何度もそう叫びながら、重い足取りで【山】の【頂上】へと向かった。どこで”暗殺”をするにせよ、出発点は大体【頂上】と決まっていた。その後を、ゆっくりと剣がついてくる。

「緑?」
「剣……うぅん、ゴメンねっ!おジィちゃんがボクなんかのお守り役を押し付けちゃって…迷惑だったでしょ?」

   緑は【山】の暗い通路の中で振り返ってそう言った。緑がこんな被害妄想的な思考をする事はめずらしかった。…それほど、初めての”暗殺(しごと)”に向かうという事は緑の精神状態のバランスを崩していた。

「そんな事は…ない。」

   そんな緑を見て、剣は彼にしてはめずらしく優しい瞳をして言った。剣も、【五行】メンバーの約半数の例に洩れず、この元気な明るい少女の事を気に入っていたのだ。…ちなみに、残りの半数は”渚”のファンだったりする。…しかし、剣には自分の”双子の姉”を相手にするシュミは無かった。

「任せておけ、緑。」
「…アリガト、剣っ」

   緑はめずらしく優しい剣の言葉にちょっと頬を紅くしてまた【頂上】へ向かって歩を進めた。しかし、そうしてすぐに振り返って先へ進んでしまった緑は、剣の顔も紅くなっていた事をあっさり見逃してしまっていたのだった。

数分後。

【頂上】から、二人の男女が翔び立って行った。
 
 
 

「ねぇ、剣…あの娘が……ターゲットなの……?」

   絞り出すように緑はそう言った。

   ここは、とある都市の郊外にある静かな街。緑と剣は【翔】で4時間ほど風の中を旅して、ターゲットのいる街まで辿り着いていた。

「あぁ…そうだ。」

   剣も、苦しそうにそう言った。”翁”が何を考えてこの仕事を緑の初仕事として選らんだのかはわからないが、間違いなく、ターゲットは校庭の大きな大木の下で座り込み、静かに本を読んでいる少女だった。

「ウソ……でしょう?」

   校庭にもう一つある大木の枝に立って、緑はゆっくりと剣の方を向いた。しかし、剣のその苦しそうな表情を直視する事は、緑にそれが本当だと言う事を思い知らせただけだった。

「本当だ。…筒井 響子。筒井グループ総裁、故・筒井 智隆の一人娘。年齢、15歳。性格は大人しく、典型的なお嬢様タイプだが、金持ちを鼻にかけるタイプでは無いのでクラスの者達からは好かれているようだ。依頼人は彼女の実の伯父の筒井公隆。依頼料は……」
「もういい!……もう、いいよ、剣…」

   苦しさを紛らわすためにターゲットのプロフィールについて並べ立てた剣のセリフを緑は途中で遮った。緑は、またも泣き出しそうなのを必死で堪えなければならなかった。

「どうして?…どうしてそんな良いコが…しかも、まだボクと同い年なんだよっ?」

   緑は目に一杯に涙を溜めて剣をじっと見つめた。その訴えかけるような視線に、まるで自分が責められているように感じた剣は、思わず視線を逸らした。

「…それは、筒井 響子が故・智隆の遺言によって莫大な遺産を受け継いだからだ。肉親は他に伯父・公隆唯ひとり。…つまり、彼女が死ねば自動的にその遺産は公隆のモノとなる。」
「そんな…お金の為ってことなの?」
「…俺達だってそうだろう?」

   しまった!と剣は思った。確かに、【五行】では依頼を受ける時は破格の値段で受けている。緑が今まで生きてこれたのだって、【五行】のメンバー達がその手を血に汚し続けてきたからだった。しかしそのセリフは、他のものにならまだしも緑に言うべきものではなかったのだ。

   緑の大きな瞳から、ぽろりと大粒の涙が零れ落ちた。

「剣…」
「す、すまん、緑…」

   剣は涙をぽろぽろと流してこちらを見つめる緑を直視できないでいた。ただでさえ女の子が苦手な剣にとって、好きな娘の涙は耐え難い鈍い痛みとなって彼の胸に突き刺さった。

   緑は鳴咽をあげかける喉をこらえて呟いた。

「出来ないよ…剣…」
「…………」
「ボク…ボク…あの娘を殺すなんて…出来ないよ…」

   剣は緑の涙声を黙って聞いていた。”翁”に”目付”に任命された以上、任務遂行を見守るのは抗う事の出来ない彼の使命だった。一時の感傷に流されて”暗殺(しごと)”もせずに帰る事などけっして許されない事だった。

   今、もしこのままターゲットのあの娘を見逃して緑と共に帰ったとしても、必ず次の者が指名されて一昼夜の内にも彼女は殺されるに違いない。そして、彼と緑は”翁”にどのような目に合わされる事か。戒律に厳しい”翁”の事だ、いかな孫娘とはいえ――いや、彼は緑を孫娘などとは考えていないかのように振る舞うのだ――必ず厳しい罰が待っている事だろう。それなばいっそ、ここでターゲットを殺ってしまったほうが…!

   しかし、如何に理屈を考えた所で結局剣には彼女に”暗殺(しごと)”をさせる事は出来なかった。ただ、ターゲットがどんな者かを”翁”から聞いた時に、剣はある程度この結果を予測してはいたのだ。

   …だからこそ、”目付”を引き受けた。

   自分か、又は燈火でもない限り、【五行】メンバー達なら必ず緑に”暗殺(しごと)”をさせてしまうだろうから。

   予想通りのこの結末を今甘んじて自分が受け入れる事は、もしかしたら緑をもっと苦しめる事になるかもしれない。しかし、それでも剣は緑の肩に優しく手を置いて言った。

「帰ろう、緑。」

   緑は零れ落ちる涙を拭こうともせずに、消え入りそうな声で剣に謝った。

「ゴメン…ゴメンね、剣…」
「いいんだ、緑。帰ろう。俺が一緒に謝ってやるから…」

   二人は、校庭に立つ大木から翔び立った。
 

   筒井 響子は、まだ本を読んでいた。
 

   剣はその日、報告に行かなかった。
 
 
 
 


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