【五行伝 ― 新緑の道標 ― 】
 
 
 

第一章 ― 逃避行 ―
 

5.
 

「そうか…」
「ウン…それでね、ボク…もう【五行】では生きていけないなって思って…。それで、燈火の所に行ったの…。…ねぇ、燈火?」

   話が終わった緑は、不安そうな顔で焚火越しに燈火の顔を覗き込んだ。

   焚火の光だけに照らされた緑の顔は、驚くほど大人びてみえた。

   燈火は正直な所、胸の鼓動が治まらなかった。しかし、彼の平常ならざるカッコつけヤロウぶりが、顔が紅くなったりテレを表面に出す事を否定した。出来る限り平常を装った燈火――つまり、緑から見たら普通通りの燈火は、緑の問いかけに答えた。

「なんだ?」
「あのさ…ボクの事、弱虫だと思う?」

   緑はうつむいて弱々しく聞いた。初めての仕事から逃げて、”翁”の仕置からも逃げて…そして【五行】からも逃げ出した。彼女はそんな自分を、とても弱く感じていた。これまで【五行】の中で厳しい修行に励む事で培って来た自信はどこかへ吹っ飛んでしまったようだった。
 

   緑は、小さい時から他の追随を許さない程に、その能力を発揮していた。なぜか、その前からずっと、緑の両親は【山】にはいなかった。いや、それは【山】の中ではめずらしい事ではない。能力のあるものを赤子の内にさらって来て、【五行】のメンバーとして育てると言う事は多々あった。そんな子供達も、元々親がメンバーの子供達も一緒になって修行に励んでいたのだ。【五行】とはそんな場所だった。

   ともあれ、聞く所によると緑の両親、すなわち”翁”の娘夫婦はどうやら仕事中に亡くなったようだった。そういう分けで”翁”に育てられた彼女は、彼の課す肉親とは思えない容赦無い修行にも耐え、幼子の段階ですでにその秘められた能力をいかんなく開花させていった。

   緑の能力は同じ年代の子供達の中では圧倒的だった。女の子の中では当然、男の子の中に入っても緑に敵うものは誰もいなかった。それどころか、十を越える頃には大人の中に混じっても遜色無く闘えるほどになっていた。緑が敵わないのはすでに隊長・副隊長やそれに準ずる者達くらいになっていた(もちろんその中には当時はまだ隊長ではなかった燈火も含まれていた)。

   そんな中でいつしか、彼女は自分の能力について、少し自信過剰気味になっていた。”翁”の実の孫だった事もあり、いつか絶対自分が頭領になれる、そんな風に考えるようになっていった。

   しかし、それは全て【山】の中の世界しか知らない時の話だった。

   実際に【五行】の者達が外で何をして来たのか。言葉にしたら唯一言の”暗殺(しごと)”とは、本当は……自分と同じようにそこに生活し、生きていっている者の”全て”を奪い去る事なのだ。

   初仕事で、ターゲットの「筒井 響子」の姿を見た時に、いままで漠然としか考えて来なかった”暗殺(しごと)”がそういったものだと言う事に、初めて緑は気が付いたのだ。

「ボク…ボク…弱虫だよね…」

   もう一度、緑は燈火にそう聞いた。【五行】の中で大人たちに混じって苦しい修行を元気にこなし、いつも明るく微笑んでいた彼女はどこかに行ってしまっていた。

   燈火の目の前にいるのは、どこにでもいる、15歳の少女だった。自分がいままで心の支えとして来たものを完全に失い、自分の将来が、先行きが見えない事にたとえようもない不安を感じている…ありのままの15歳の緑の姿だった。

「フッ…それは違うぞ、緑。」

   燈火はおもむろに立ち上がり、赤々と燃え盛る焚火を回り込んで緑の隣に立った。緑を見下ろして優しく微笑む燈火と、不安げな顔で燈火を見上げる緑を焚火の炎がゆらゆらと照らし出している。

「オマエは決して逃げたわけじゃない。弱虫なわけでもない。」
「燈火……でも…」

   緑の隣にスッと腰を下ろしながら燈火は呟くように言った。緑の視線が燈火が腰を下ろすのに合わせてゆっくりと下へと移動する。そして、燈火は視線を焚火に落としたまま静かに話を続けた。

「オマエは【五行】のやり方と自分の生き方が違う道だと…決して交わる事の無いものだと気づいた。だから、『抜け』る事を決心した。違うか?」
「………」

   緑は黙って話し続ける燈火の横顔を見つめていた。

「歩んでいく道を変える事は、決してそれまでの道から逃げる事と同義じゃない。この世の中の者達は全て、生まれてから親なり、保護者なりが定めた道を歩く事になる。……でも、いつか必ず自分の意志で、その道を歩み続けるか、又は違った道を行くのかを決める時が来るんだ。」
「………」

   燈火はゆっくりと緑の方へと振り向いた。燈火の瞳は揺らめく焚火の炎を映し出している。見つめ返す緑の瞳にも、同じように紅い炎が燃えていた。

「緑……オマエは強いよ。あの”翁”が定めた道から逸れる事を決心出来たんだからな。そんなオマエの心が分かったから、俺はオマエと『抜け』る事にしたんだ。」
「燈火……」

   燈火はその燃える瞳で緑をまっすぐに見つめて、もう一度繰り返した。

「そんなオマエと一緒だから、俺は【五行】から『抜け』る事を決心したんだ。」
「燈火……アリガト…」

   緑も同じように燃え続ける瞳で燈火をまっすぐに見つめ返して言った。
 

   二人の時が、止まったように感じた。
 

   そして、ゆっくりと、緑は、口を開いた。

「燈火…ずっと…ずっと一緒にいてくれる?」
「……ああ」

   緑は焚火に照らされているからだけでは決してない真っ赤な頬をして、燈火の肩に頭をコツンと乗せた。

「ありがとう…燈火…」
「緑…」

   燈火がやさしく緑の肩に手を回す。ピクッと肩を震わせた緑は、思わず燈火の顔を見上げてしまう。二人の視線が、激しく絡み合った。

「燈火……」
「緑……」

   二人の影が、ゆっくりと重なっていく。
 
 

   が、そこまでだった。
 

   バシュァッ!!!

   今まで明るく、柔らかく二人の男女を照らし続けていた焚火が、一瞬にして消し去られた。

『す、水槍!!!』

   燈火と緑の声が重なる。燈火が付けた焚火を消し去ったのは、間違いなく【水技】の内の一つ、【水槍】だった。この技を使えるもので、二人を追って来る人物と言えば、唯一人しかいなかった。

「燈火!」
「緑、翔ぶぞ!」
「ウン!」

   燈火は緑の手を取って超低空飛行で翔び立った。しかし、この暗闇の中でも頭上から【水槍】を放ったその人物は、しっかりと二人の動きを補足していた。

「逃がさぬぞ…緑、燈火…!」

   今まさに明け始めた夜空の色と同じ、瑠璃色の服を身に纏った”翁”は、低空で翔び続ける燈火と緑を、確実に目で追っていった。

   その”翁”の瞳には、消し去ったはずの焚火の炎が、まだ映っている様に見えた。

   いや、燈火が付けたあの柔らかい焚火の色とは全く違う。
 

   それは、どす黒い狂気の炎だった。
 
 
 
 


back
index

next