【五行伝 ― 新緑の道標 ― 】
 
 
 

第一章 ― 逃避行 ―
 

6.
 

「どうして!?どうしておジィちゃんにボク達の居場所がバレちゃったの!?」
「分からない!とにかく何とかして逃げるんだっ!」

   燈火と緑は手を繋いだまま、木々の間を縫って猛スピードで翔び続けた。次々と現れては後方へと飛び去っていく木々達は、まるで意志を持つかのように二人の行く手を尽く阻み続けた。

ピシッ!

「つっ!」
「大丈夫か、緑!」
「う、ウン、平気だよっ」

   ツツ…と緑の頬から血が流れ落ちる。このスピードではたとえ木の枝といえども、触れるだけでまるで研ぎ澄まされた刃物の様に二人の服を、肌を切り裂いた。

   森の間に見え隠れしている逃げ続ける二人を”翁”は上空から追跡していた。”翁”の視界には、何故か二人が移動する軌跡が闇の中に薄水色の線となって浮かび上がっている。まるで蛍か何かのように見えるその水色のぼんやりとした光は、他ならぬ緑の体から放たれていた。

「ワシから逃げる事は出来ぬぞ…緑…」

   樹木に邪魔をされてそれ以上スピードを上げられない燈火と緑と違って、”翁”は悠然と白み始めた東の空に向かって翔んでいた。”翁”の瑠璃色の服よりも、次第に空は明るく、蒼く変化していく。

「そうじゃ…そのまま進むのじゃ…」

   呟きながら飛翔する ”翁”の遥か先には、黒々とした水を満々と湛えた人工の湖――「一ノ瀬ダム」が山々の間にその雄大なる姿を現し始めていた。

   夢中で翔び続ける燈火と緑は、眼前に迫り来つつある死の湖の影に全く気づく事はなかった。

  ”翁”の目の中には、まだ黒い炎が燃え続けていた。
 
 
 

タタタタ!!ガチャ!

  夜明け前の静かな部屋の中に、いきなり響き渡ったドアを開け放つ音。

「ちょっと剣っ!」

バダン!タタタタタッ!

  直後、灯りを消したままの暗い部屋に、足音と大声が同時に響き渡る。

「ねぇ、聞いてよ!剣ってば、いないのっ!?」

   こう暗くては居るのか居ないのかすらも分からない。渚は勝手知ったる弟の部屋、まっすぐに灯りが置いてある所へ行き、マッチでランプに火を付けた。

シュボッ……

「まったく……いい加減電気くらい引いて欲しいものだわ……!」

   ランプ程度の明るさでは大した助けにはなりはしなかった。しかし、【山】は【五行】にとって絶対秘密の隠れ里。電気など引いてしまってはあっという間にこの場所に大勢の人々が暮らしている事がバレてしまう。それが分かっていても思わず文句を言いたくなってしまうほど、夜の【山】の中は暗かった。

   灯りが点くとすぐに渚は剣のベッドがある方向へと振り向く。その拍子にフワリと踊った渚の濡れたような長い黒髪が、ランプの中でチラチラ燃える小さな灯りを映して煌いた。

   ランプにぼんやりと照らし出されたベッドの上では、すでに剣は上半身を起こして渚の方を見つめていた。

「……なんだ、渚?」

   渚は剣のその顔を見て内心ドキッとした。全く、突然の燈火と緑の『抜け』といい、先ほどの”翁”といい…・・今日はなんだか驚かされる事が多い。

「なんだ、起きてたの……」
「ああ……一体どうしたんだ、こんな時間に?」

   剣が無表情なのはいつもの事だったが、今日のそれはいままでのものとどこか違った。ただ起きていたというだけだったら、渚はこれほど驚きはしなかっただろう。渚を驚かせた剣の顔には、普段の彼らしくない、苦悩…葛藤…怒り…悲しみ…そんなものgがありありと浮かんでいた。

「剣……なにかあったの?」
「……それはこっちのセリフだ、渚。」

   双子特有の心の通じ合いというヤツで、渚は一瞬にして剣が今回の件になんらかの係わりがある事を見抜いた。逆に、剣はこの時間に唐突にやって来た渚の顔を見た途端に、帰って来てから一睡もせずに考えていた可能性が現実のものとなった事を知った。

「……渚。緑が、『抜け』たな?」
「やっぱり……何か知ってるのね、剣。」

   フゥッと溜息を吐きながら言う渚を剣はしばらく見上げていたが、おもむろに話し出した。

「俺が、彼女の初仕事の”目付”をやった。緑は……与えられた”暗殺(しごと)”を全うせずに、ここへ戻って来た。」
「えええぇっ!? アンタはそれでなにもしなかったの?」

   渚は剣の答えを聞いて、その美しい黒い瞳を大きく見開いた。

「俺は、彼女の意見を尊重したかった。……ただ、それだけ。」

   剣は静かに、しかし断固たる決意を持って言った。しかし、渚は両手を腰に当てて仁王立ちすると、呆れたような声を出した。

「剣。アンタね、それでホントにいいの?」
「なにがだ?」
「緑はね、燈火と一緒に『抜け』たんだよ?」

   今度は剣の瞳が見開かれる番だった。しかし、すぐにまた元の無表情な剣の顔に戻ると、静かに言った。

「俺がどうこうできる問題じゃない。あいつらが『抜け』たんだったら、”翁”があいつらを殺る……それだけの事だろう?」
「ハァ……剣、カッコ付けるのもいい加減にしたら?緑の事、好きなんでしょ?」

   剣は自分が緑を好きだという事を、一度も口に出して渚に言った事は無かった。しかし、いつの頃からか緑に惹かれだした時、真っ先に気づいたのはやはり渚だった。それ以来、この双子の姉は事あるごとに自分をからかった。お互い、もう27歳にもなりながら浮いたウワサの一つも無かったので、渚はこの遅咲きの恋をなんとか実らせくれようとでもしたのだろう。剣にとっては大きなお世話だったが。

   そして、今回もこのおせっかい焼きの姉は懲りずに世話を焼きに来たのだった。

「渚……俺に、一体どうしろって言うんだ?まさかあいつらの後を追って『抜け』ろ、とでも?」
「そこまでは言わないわ。でも、ここでそうやって寝転がっているだけじゃ、アンタの恋はそこまで、ってことよ。」
「…………。」

   剣は核心を付く渚のセリフに言葉を詰まらせた。いつでも、この姉は自分が正しいと思う事を歯に衣着せぬ物言いでズバズバ言って来た。しかし、彼女の厳しい意見は、唯一の肉親である双子の弟、剣の事を想っているからこそ、なのであった。

「剣、いつものアンタはもっと行動的でしょ?なのに、女の子の事となるとどうしてそんなに臆病になってしまうの?」
「俺は臆病なんかじゃ…ない。」

   渚の挑発に反論する。…この時点ですでに剣は渚の術中にはまってしまっていた。剣本人もその事に気づいているのだが、これまでいつもそうだったように、自分が行動に移るきっかけを作ってくれる姉に内心感謝していたのだった。

   剣は、ランプの灯りが揺れる部屋の中で、ゆっくりとベッドから降りて立ち上がった。

「渚……俺、行って来る。」
「よしよし、剣!頑張ってくるんだよ♪」

   渚は自分より20cm近く背の高い剣の肩をポンポンと叩いた。子供の頃だったら、確実に頭を撫でられていた事だろう。ほんの数分程度先にこの世に生まれ落ちただけなのに、渚はいつもこうやってお姉さん風を吹かせるのだった。……剣は決してそれを嫌ってはいなかったが。

「もしかしたら……もう戻れないかもしれないけど……」
「何言ってんの?……大丈夫よ、剣♪  私はもちろん行かないけど、またきっと会えるわ!上手くやるのよ、剣っ♪……燈火君に、負けちゃダメよ♪」

   そう言って渚はもう一度、剣の華奢に見えるが実は結構幅広い背中ををポンッ!と勢い良く叩いた。

「じゃぁな、渚。」
「うん、剣……いってらっしゃい。」

   剣はテーブルに脱ぎ捨ててあったホルスターに入ったアタックナイフを素早く身につけると、ジャケットを引っかけて通路に飛び出していった。

   そして、誰も居なくなった弟の部屋の中に、姉はいつまでも立ち尽くしていた。
 
 
 
 


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