【五行伝 ― 新緑の道標 ― 】
第一章 ― 逃避行 ―
7.
ゴォォオオオッ!!
シュパァッ!
時折、”翁”の【水槍】がからかうように二人の左右に、前後に飛来する。それは、どう考えても遊んでいるとしか思えない攻撃だった。二人の動きを補足している以上、”翁”が本気になったら一撃で心臓を貫かれてもおかしくはない。
「クッ!まだ振り切れないのかっ!?」
「ダメだよ!完全に動きを補足されてるっ!」飛び続ける二人の視界に飛び込んで来る木々の数は次第に少なくなって来ていた。このままいけば、もうすぐ森が途切れてしまうかもしれない。そうなったら…。いや、もしかしたら”翁”は【水槍】によって二人を森が切れる方向へと誘導しているのかもしれない。遮蔽物も身を隠すところも無い場所で、もし正面きって”翁”と戦ったら、その絶大なる能力に対抗する術はない。
燈火がその最悪の可能性について考え始めたその時。
ザァッ……!
唐突に、森が途切れた。
森から飛び出して停止した二人の眼下には、周囲の川達から集めた水をその暗く、巨大な体一杯に満々と湛えた湖が。そして、眼前には夜明けの光が差し込む直前の虹色に輝く空が広がっていた。その雄大なる景色は思わずうっとりするほど美しか
ったが、今の燈火と緑にとっては自分達を殺すための処刑場としか映らなかった。「しまった……!!」
「と、燈火……!」燈火は自分の浅はかさを呪った。この付近にはダムが非常に数多く隣接していた。どちらの方向にしろ、ずっと同方向に飛び続けていれば必ずダムか川に突き当たってしまう事は、少し考えれば容易に想像できたはずだ。”翁”の【水槍】は、燈火達が森に姿を潜めてゲリラ戦を展開したり、又は進路を変更してしまう事を防ぐ為のものだったのだ。燈火と緑は、”翁”にとって絶対的に有利な戦場へと自ら飛び込んでいってしまったのだった。
「フォッフォッフォ……緑、燈火。ここまでじゃな……!」
フシュゥン……
聞きなれた笑い声に振り返ると、明けはじめた空の光を全身に受けて不気味にその姿を夜空に浮かび上がらせた”翁”が、ゆっくりと降下して来るところだった。この距離――燈火と緑とは、まだ30m程の距離があった――からでもはっきり分かるほど、”翁”の顔には二人をゾッとさせるのに十分な冷笑を浮かべていた。
「お、おジィちゃん……!」
「”翁”……!」二人は同時に”翁”の名を呼ぶ。二人と同じ高さ――湖面から20m程の高さまで降下して来ると、”翁”はフワリと停止した。
「緑、燈火。よもやオヌシ等が【五行】から『抜け』ようとは思わなんだぞ……。
……なぜじゃ?」ギラリと妖しい光を放つ瞳で二人をねめつけて”翁”は尋ねた。その圧倒的な迫力に押されて二人の額から知らず知らず汗が滴り落ちる。
緑と燈火は、早くも”翁”の迫力に押しつぶされそうになりながらも、なんとかその質問に答えた。
「ボク……ボクはイヤなんだ!人を殺すのは!ボクの歩む”道”と【五行】――おジィちゃんの歩む”道”はもう交わらないよ!」
「フッ……俺はそんな緑を守る…それだけだぜ」緑は両手をギュッと握り締めて叫んだ。燈火も髪を掻き上げながら緑の後に続いて静かに言った。
「フォ…フォッフォッフォ……なにを言い出すのかと思えば……そんな事じゃったのか?『人を殺すのがイヤ』じゃと?……笑わせるでないぞっ!!!」
いままで風の凪いだ海の水面のように静かだった”翁”が、突然巨大な津波が巻き起こったかのように激昂した。その怒声は辺りの空気と共に、緑と燈火の体をビリビリと震わせた。
「今までワシがオヌシを鍛えてきたのはなんのためじゃったと思う!?【五行】の次の頭領の座は、緑、お前のものじゃ!その為にワシは心を鬼にしてオヌシを鍛え続けた!オヌシはそんな事も分からんのかっ!」
「ボクは別に頭領になんてなりたくないよっ!」”翁”のそのセリフが終わるか終わらないかの内に、思わず緑も負けないくらいの大声で叫びかえしていた。
「確かにボクは子供の頃からずっとずっと他のコたちより厳しいおジィちゃんの修行に耐えてきたよっ!でも、それは別に頭領なんかになりたいからじゃない!」
そこまで一気に叫んで、緑は急に静かになった。
「そうだよ、ボクは……おジィちゃんに誉めてもらいたくて…それでガンバってきたんだ!!!」
最後にもう一度力一杯の大声で叫んだ瞬間、彼女の瞳からポロッと涙が零れ落ちた。その大粒の涙は、今まさに昇ろうとする朝日の最初の光の帯をその身に受けてキラキラと輝きながら眼下の湖に向かって落ちていく。
朝日を浴びながら”翁”を見つめてポロポロと涙を流す緑を見つめながら、燈火はその姿をキレイだな……と感じていた。同時に、我ながらなんて不謹慎なヤツだ、とも思っていた。
しばらく、誰も口を開かなかった。黙ったまま空中にじっと浮んでいる三人の姿を、金色の朝の光が容赦無く照らし出し、その影を浮かび上がらせていく。
そして、山並みの間から朝日がその眩い姿を完全に現した時。
燈火が髪を掻き上げつつ、少し緑を庇うように前に進み出て言った。
「フッ、”翁”……もうわかっただろ?緑は、アンタとは違う道を歩く事を決心した。アンタも人の親の端くれだったら、それを快く送り出してやりなよ?」
ムダだと知りつつ燈火は”翁”を説得しようとする。しかし、殆ど聞き取れない様な小声で、”翁”は燈火の言葉に答えた。
「ワシが『人の親』であったのは……14年前までじゃよ……」
「え?」
「……!」その声は、緑には届かなかった。しかし、燈火には辛うじて聞き取れたようだった。一体、どういう意味だ?14年前に起こった事件の中で、”翁”や緑に関係のあるものといえば……ま、まさか!?
しかし、燈火がその言葉の意味を”翁”に問いただそうとした瞬間、開きかけた彼の口はすぐに真一文字に閉ざされた。同時に”翁”の体から吹き出した凄まじい闘気に反応して、自然と構えを取らされてしまう。どうやら、燈火の説得の言葉は逆に”翁”の古傷を激しく掻き毟ってしまったようだった。”翁”の体から吹き出す闘気の激しさが、そのことを如実に語っていた。
「……おしゃべりはここまでじゃ、緑、燈火。例えどんな理由があろうと、オヌシ等が『抜け』たという事実に変わりはない。”掟”に従い、ここで冥土へと旅立つが良い。」
「クッ……なんて闘気だよ……!!」今更ながらに”翁”の強大さを痛感した燈火の額から、次々と玉のような汗が浮び上がった。ただでさえ凄まじい”翁”の闘気なのに、【火】の能力者の燈火にとっての【水】の能力者の”翁”の闘気は、蛙にとっての蛇の視線にも勝るものであったのだ。
強大なる二人の能力者の闘いが、今まさに始まろうとしたその時。緑が二人の間に割って入って、その心にわだかまっていた疑問を”翁”にぶつけた。
「待って!」
「み、緑!?」
「……ねぇ、おジィちゃん。どうして、ボク達の居場所が分かったの?」その緑の質問に、”翁”はおもむろに緑の胸を指差した。
そこには、小さな薄水色のガラスのペンダントが揺れていた。
「それが、ワシにオヌシ等の居所を教えてくれたのじゃ。」
「これが……?だって、これっておジィちゃんがボクにくれたたった一つのプレゼントじゃない?お母さんの形見だって言ってたじゃないっ!?」泣きはらして紅くなった緑の大きな瞳が、さらに大きく見開かれる。”翁”はそんな緑の顔をじっと見詰めながらも、まったく表情を変えずに言い放った。
「オヌシの胸のそのペンダント、ガラスの中には特殊な呪法をかけた水が封入されているのじゃ。」
「ウソ……じゃぁまさかボクがいつか『抜け』る事を、その頃から疑ってたの?」
「………。」緑の質問に、”翁”は何も答えなかった。
緑の瞳からまた、涙が零れ落ちた。自分の事を想ってプレゼントしてくれたと思っていたものが、ずっとずっと大事にしてきたものが実は唯の探知器だったなんて……そんな……そんな……!!
「う……ォォォォオオオオオオオオッ!!!」
唐突に、燈火が咆えた。直後、燈火の闘気が爆発的に高まり、体から紅いオーラをその全身から揺らめく炎の様に吹き上げた。
「”翁”ぁ……てめぇ…ゆるさねぇっ!!!!!」
”翁”が告げた衝撃の事実に激昂した燈火は、ベルトからターボライターを抜き放つ。先端に点った小さな灯火は、燈火の闘気に呼応して、炎となって燃え上がった。
燈火にとって絶望的な闘いの火蓋は、その瞬間、切って落とされた。
構えもとらずに悠然とこちらを見つめる”翁”を激しく燃える瞳で睨み付けながら、燈火は左手で【印】を切りつつ信じられないような早口で正確に【言霊】を紡ぎ出し始めた。
「【火気】のものよ、炎の精霊よ!己が姿を火球へと変じよ!我が命により飛翔せし燃え盛る其の身を以って、彼の者を討ち倒すべし!」
ボボボボボワァッ!!
燈火の【言霊】が完成するのと同時に、ターボライターの炎から親指大の火球が一斉に撃ち出される。その数、ざっと15発。撃ち出された【火弾】は全て、一直線に”翁”を目指して飛翔した。
しかし、”翁”は迫る【火弾】の一群を見つめながら「フォッフォッフォ」と燈火を嘲笑った。腰に吊るした「ひょうたん」を外して栓を抜き取ると、素早く前方に向けて構えた。
「燈火よ……そのような初歩的な技がこのワシに効くとでも思うたか!」
「フッ……確かに【火弾】は初歩的な技だぜ……”応用”しなければなっ!【曲】ッ!!」ボボボボボゥッ!
その言葉と共に燈火の【印】が変化する。同時に燈火の誘導に従っていままで一直線に”翁”と向かっていた【火弾】は、上下左右に展開して同時に”翁”へと殺到した。
しかし、”翁”はその予想外の事態にも嘲笑を絶やすことなく、落ち着いた声で、だが凄まじいスピードで【印】と【言霊】を完成させた。
「【水気】のものよ、水の精霊よ。我が命に従いて来れ。彼の邪悪なる力より我を守護する静かなる障壁と成れ。」
カカカカッ!バジュアアアアアアッ!!
上下左右から”翁”へと着弾したように見えた燈火の【火弾】は、彼が球状に展開させた障壁――【円水】にぶち当たって全て消滅させられていた。
「【円水】を、球に…した……!?」
「どのような応用を加えようとも、オヌシの技がワシに通用しないのは分かり切っておるじゃろう? そして、”応用”とは今ワシがやったようにやるものなのじゃよ、
燈火。……そこを退け。ワシは緑に仕置きをせねばならないのじゃ。」
「お、おジィちゃん……!」両手で口を押さえたまま二人の激しい闘いを静かに見守っていた緑だったが、”翁”のそのあまりの言葉に思わず祖父の名を呼んだ。
(燈火よりもボクにお仕置きする? ……そんなに、そんなにボクの事が嫌いなの? 答えて、おジィちゃん!)
声にならない心の叫びを上げる緑。唯一の肉親である”翁”の再三の非常なる言葉によって彼女の心は千々に引き裂かれ、今や塞がる事の無い傷口から血の涙を流し続けていた。
しかし、燈火は退かなかった。返事の代りに左手だけにはめた指抜きグローブの甲にあるホルダーに火が点いたままのターボライターを素早く差し込むと、両手で【印】を切り始めた。
「ふざけるな! このオレ様が、緑に手を出させるとでも思ってんのかっ!」
「と、燈火……!」燈火のその言葉に涙に濡れた緑の顔がほんの少しだけほころぶ。そして燈火はそのまま【言霊】の詠唱に入った。
「【火気】のものよ、紅蓮の炎よ!古の契約に基き、今我が命に服せ!我は召喚す!! 我が前に立ち塞がる全ての者を焼き尽くす煉獄の焔を引き連れて来れ!!!汝、【火龍】為!!!!」
【言霊】の完成と共に、燈火は右手で左手の手首を握ったまま、左手を正面の”翁”に向かって突き出した。
左手の甲に差し込まれたターボライターに燃え盛る紅い炎。
そこから、一瞬、小さな咆哮が聞こえたような気がした。
そして……。
【龍】が、生まれ出た。
キュギャォオォオォォォオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!
【五行】の各気それぞれに存在する、最強の技である【龍】――燈火の【火龍】を目にしても、”翁”の表情から変化を引き出す事は出来なかった。迫り来る【火龍】を見つめていながらも、”翁”は相も変わらない歪んだ嘲笑を浮かべていた。
「フォッフォッフォ……燈火。オヌシがすでに、【龍】を使えるようになっていたとはな、驚きじゃよ。……じゃが。」
そこで言葉を切って、”翁”はひょうたんを顔の前に持っていくと、右手の手刀でスパッと半分に割った。そして、半分になってしまったひょうたんを握り締めたまま、迫り来る【火龍】から避けるようにほんの少し、上昇した。
「逃がさねぇぞ、”翁”ぁっ!」
燈火は差し出した左拳を素早くひじから垂直に立てる。その動きに合わせて、【火龍】は”翁”を追うようにして上昇していった。
轟音を上げ、紅い炎を撒き散らして、その巨大な顎を裂けるほどに広げて迫り来る【火龍】。ちょうどその様を見下ろすような位置でフワリと停止した”翁”は、ニヤァリ……と血も凍る冷笑を浮べた。
そして、”翁”の手に握られたひょうたんに入った水が、まるで清めの水でも撒くように眼下に迫る【火龍】へと振り掛けられた。
【火龍】の発する紅い光と、きらめく朝日の金色の陽光を受けて、”翁”の撒いた水はまるで宝石の様に輝きながら【火龍】へと降り注いでいく。
その様を眺めながら、”翁”は静かに、祈るように【印】を組み、【言霊】を唱えた。
「水剋火。我、【水気】の力以ちて、汝、【火気】の者の命の炎を消し止めん。」
シュパァァァァァァアアアアアッ!
”翁”の力を受けたその水滴達は、まるで【火龍】の全てを食らい尽くすかの如くその巨大な胴体に風穴を次々に穿っていく。頭に、顎に、胴体に、腹に、尾に…。降り注ぐ【水気】の水滴によって今まさに消滅させられんとする【火龍】は、断末魔の長い長い咆哮を上げた。
キュゥォォォォオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォォォ…ン……
そして、【火龍】の体を構成する最後の炎が、最後の水滴によって消し去られた。
唐突に、”翁”の切られた言葉が続けられる。
「じゃが、ぬるいな。」
「そん…な……ここまで…ここまで差があるっていうのか……!!」
「と、燈火…燈火……!」最大の必殺技である【火龍】をいともあっさりと消滅させられた燈火は、愕然とした表情を浮かべて立ち尽くした。緑が彼の腕を掴んで懸命にその名前を呼んでいる事にすら気づかなかった程に。
”翁”は、もう一度燈火と緑と同じ高さまで降りて来ると、静かに、しかし二人の心から恐怖を絞り取るような声で言い放った。
「これまでじゃな、燈火……緑。………死ね。」
ザワリ……!
”翁”の気に必殺の気合が篭るのと同時に、辺りの空気が変わる。
ザザザザザザァァァァ……
いままで水を打ったように静かだった眼下の一ノ瀬ダムの湖面に無数の漣が沸き立った。
そして。
ザ………ァァァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!
昇り切った朝日をその瑠璃色の胴着に受けて浮遊する”翁”よりも高く。
湖面から、巨大な津波が巻き起こっていた。
燈火と緑は、呆然と、その様を見詰める事しか出来なかった。
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