【五行伝 ― 新緑の道標 ― 】
 
 
 

第一章 ― 逃避行 ―
 

8.
 

ゴォォォォオオオオオオオオオッ!

   朝焼けの虹色の光の中、人影が東の方向へ向かって翔んでいた。

   まるで嵐のような風捲く音が彼の耳に鳴り響いている。

「緑……」

   警備の隊員の話では、剣が出る2時間程前に、”翁”は緑と燈火を追って翔び立ったらしい。すでに”翁”は二人に追いついている頃だろうか?もし”翁”が二人を発見していたならば、冷酷非情な彼の事だ、今や『抜け』となった二人をためらいも無く殺してしまうに違いない。

   もはや間に合わないかもしれない。しかし、剣は翔び続けた。緑と燈火、そして”翁”が向かったと思われる方向を目指して。

「無事でいてくれ……!!」

   無意識の内にそう呟いた剣は、持てる能力を全て【翔】に注ぎ込んで、見る見る明るさを増していく東の空に向かって翔び続けた。
 
 
 

「お、おジィちゃん……!!」
「オイオイ、なんつーバカでかい【轟波】だよ…!!」

   歪んだ冷笑を浮かべる”翁”の背後から発生した超巨大な津波――【轟波】は、さらにぐんぐんとその大きさを増しながら凍り付いたようにその場に立ち止まった二人の方へ迫りつつあった。その巨大さに似合わない津波のスピードは、どう考えても二人の【翔】の速度を遥かに上回っているのは間違い無かった。

(――逃げられない。)

   眼前に迫り来る、まるで巨大な怪物の顎の様な【轟波】を見つめながら、緑は完全に死を覚悟した。

(やっぱり…やっぱりおジィちゃんはボクの事がキライなんだ……。そして、そのおジィちゃんの手で、ボクは死ぬんだね……)

   緑は目を瞑った。小さい頃からの思い出が頭を過ぎる。”翁”の課す厳しい厳しい修行。彼女の”翁”との思い出の大半は、それによって占められていた。それ以外のものと言えば……。

チャラ……

   無意識に、緑は胸に下がる薄水色のガラスのペンダントに手をやる。そして、思わず思い出してしまう。ついさっきまでは、彼女の心の拠り所となっていた”翁”からのプレゼント。これを渡された時の”翁”のあの微笑み。それは、緑にとってはかけがえのない大切な思い出だったのだ。

   しかし、そのペンダントはもはや緑の心を支えてはくれなかった。

   固く閉ざされた緑の瞳からは、止めど無く涙が流れ続けていた。
 
 
 

「緑。おい、緑っ!」

   緑がハッと気づくと、燈火が”翁”から見えないように緑を小突いていた。

「燈火……もう…ダメだよ…ボク…達……」

   緑は涙目を燈火に向けて首をふるふると振りながら切れ切れに呟いた。しかし燈火は緑を見つめてニヤリと微笑んだ。その微笑みは、まだ彼が希望を失っていないという事を緑に教えていた。まだ死を覚悟するには早すぎる、という事を。

「緑。まだ諦めるのは早すぎるぜっ。いいか、良く聞けよ……」
 

………………!!!
 

「そんな、そんなっ!だってそれじゃ燈火がっ!!」
「いいから! 緑、とにかく今は自分が助かる事だけを考えろ!……大丈夫だって、オレ様は強いんだぜ?きっと何とかしてみせるっ!!」

   そう言うと、燈火は緑に向かってパチッ♪と右目を閉じて見せる。緑の一杯に涙を湛えた瞳は、燈火のその微笑みに釘付けになった。

「燈火ぁ……」
「緑……きっとだ。約束する。」

   そして、彼は微笑みを浮かべたまま、迫り来る大津波と、どす黒い冷笑を絶やさずにこちらを見つめる”翁”の方へとまるでスローモーションの様にゆっくりと向き直った。……いや、そんな風に見えたのは、緑の気の所為だったのかもしれない。

   燈火は”翁”を睨み付けると、力の限り叫んだ。

「”翁”ぁっ!オレはまだ終わっちゃいねぇっ!いっくぜぇぇえええええっ!!!」
「フォッフォッフォ、愚かな……。今更オヌシになにができる、燈火?所詮オヌシではけっしてワシには勝てないのがまだわからんのか?」

   ”翁”は今度は左腰にぶら下げたひょうたんを手にしながら呟くように言った。しかし燈火はその言葉にはまったく耳を貸さずに技を発動させる。燈火の左手が素早く円を描くように動き、再び右手に握られたターボライターの炎がその紅い輝きを増していく。

「【火気】のものよ、炎の精霊よ! 其の全ての力を小さき火玉へと封じよ!我が命に従いて飛翔し、怨敵に辿り着かば、汝が力を余す所無く解き放つ為りっ!」

   【言霊】が完成するのと同時に、三発の火球が燈火の手の中の炎から飛び立った。燈火の放った【爆炎】は、まっすぐに”翁”を目指して飛翔していく。

「燈火、気でも違ごうたか?【爆炎】程度でワシの【円水】を突き破れるとでも思うたか…?」

   ”翁”は自分に向かって飛翔して来る燈火の三発の火球を見つめながら呆れたように呟いた。そして、素早くひょうたんの蓋を外して先ほどと同じ言霊を唱える。

「【水気】のものよ、水の精霊よ。我が命に従いて来れ。彼の邪悪なる力より我を守護する静かなる障壁と成れ。」

   ”翁”のひょうたんからまるで生命を持つかのように流れ出した水は、一瞬にして薄い膜状となって”翁”の回りに球体の結界を張った。その美しい優雅な姿に似合わない強固極まりない結界、【円水】。しかし、【爆炎】に対して”翁”が【円水】を張る事は燈火の予想通りだった。確かに”翁”の言うとおり、【円水】の結
界を燈火の【爆炎】が突き破る事は出来ないだろう。

   …だが、それで良かった。

   燈火は印を切り直しながら【爆炎】の火球に命令を下す。

「散!今こそ其の力、開放せしめん!!【壱】ッ!」

ゴアアアアアアアアアアアッ!!!

   ”翁”の真正面の空中で、いきなり一つの火球が大爆発した。小さな火球に封じ込められた膨大な量の【火気】が一気に開放されて、轟音と共に”翁”に向かって降り注ぐ。

「フォッ! このような攻撃になんの意味があると言うのじゃ!?」

   ”翁”は悠然と自分の張った【円水】の結界に降り注ぐ炎を見つめていた。【円水】に当たった無数の火の粉は、次々にその薄い水面に波紋を生み出していく。

   そして、その炎と波紋によって、燈火からは”翁”が。

    ”翁”からは、燈火の姿が、隠された。

「緑、今だっ!」

ドンッ!!

「と、燈火ぁっ……」

   燈火は緑を眼下に広がる湖に向かって押した。緑は小さくなっていく燈火を見上げながら、小声で燈火の名前を呼んだ。それから、目を擦って涙を払うと、くるりと下に振り返って【翔】で一気に加速する。

(燈火……燈火……無事でいてねっ、約束だゾっ!約束したんだからねっ!!)

   緑が水面に飛び来んだのと同時に、燈火は二つ目の火球を爆発させた。

「弐ッ!」

ゴアアアアアアアアアアアアッ!!(バッシャーンッ!)

   緑が着水した音はこれで”翁”には聞こえなかったはずだ。燈火は眼下の湖に一瞬目をやって緑が水に潜った事を確認すると、小さな声で呟いた。

「緑……必ず生き延びろよ……」

   再び燈火は”翁”の方に向き直ると、最後の火球を爆発させながら、同時にその手の中に炎の剣――【焔牙】を発生させる。

「参ッ!!」

ゴアアアアアアアアアアアアッ!!

   爆音とともに”翁”に切りかかる燈火。【爆炎】を使った目くらましだけでは足りない。”翁”が緑の事を思い出せなくなるくらい、連続で攻撃を加えなくては。

(ヘッ……このオレ様が緑の為にここまでやるとはね……ヤキが回ったかな……)

   そんな事を考えながらも、燈火の顔には微笑みが浮んでいた。

   燈火は、【焔牙】を上段に構えて、”翁”へと突っ込んでいった。
 
 
 
 


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