【五行伝 ― 新緑の道標 ― 】
 
 
 

第二章 ― 決意 ―
 

2.
 

   【山】に戻った”翁”は庵の中の定位置に座したまま、渚と対峙していた。

「そうしますと、”翁”。燈火殿と緑殿を…始末した、とおっしゃるのですね?」
「そうじゃ。ワシの手で確実に、始末した。」

   渚は”翁”の口からキッパリとした口調で語られたその事実を聞きながら、内心深い深い溜息を吐いた。

(……もう、剣! アンタ一体なにしてたのっ!? それに、顔色一つ変えずに孫娘を『始末した』だなんて……この冷血ジジィっ!!)

   しかし、”翁”はそんな渚の胸中にはまったく気付かずに、冷徹な口調で渚に命令をくだした。

「渚、【五行】全隊員を【広間】に集めるのじゃ。二度とこのような事が起きないよう、隊員一同にきつく言い渡さねばならぬ。」
「ハッ、かしこまりました。」

   渚は”翁”の言葉に平伏する。渚は”翁”が心底大っキライだった。しかし【水円】以外の部隊の隊員達とは違って、渚にとっての”翁”は頭領であると同時に自分の直属の上司でもあり、その恐ろしさつねに間近で見せられ続けてきた。だから、一見温和なこの白髪の老人の恐ろしさが骨の髄まで染み込んでいたのだ。渚は”翁”に命令されるとその有無を言わさない口調も手伝ってか、どうしても逆らう事が出来なかった。

「それから、【炎角】の隊長も新しく決定せねばならん。……あそこの副隊長は誰じゃったかの?」
「ハッ、【炎角】副隊長は、輝煬…神保 輝煬(じんぼ きょう)にございます。しかし、あの男は……」

   渚が何か言いかけたのを目で制する”翁”。

「よい。次の【炎角】隊長は輝煬にまかせる事にする。」
「ハッ。」

   渚はまたも”翁”の言葉に従ってしまう。非常に悔しい事だが、少なくとも”翁”が渚の上司である以上、この関係を打破する事は出来ないようだった。

(私も一緒に行けばよかったかな、剣…?)

   無意識のうちに、渚は答える事の無い心の中の弟の面影に問い掛けていた。しかし、あの三人と違って自分には『抜け』る事に対する確固たる信念が無い。それは渚にとってただの”逃避”としか思えなかった。

(”翁”がキライで逃げました…とは言えないしねぇ?)

   渚は”翁”に深々と一礼して庵を後にしながら、心の中でそう考えて「クスッ♪」と微笑んだ。存外、若き【五行】のトップ達の中で一番打たれ強いのは、渚かもしれない。
 
 
 

   【五行】五部隊が一、【土流】隊長である武田 嶺とその腹心の部下である副隊長の長尾 堅哉(ながお けんや)が、相変わらずランプの明かりすら点けない暗い詰所の執務室でテーブルを挟んで向かい合っていた。まだなんの発表もなかったが、”翁”が『抜け』た二人を始末して戻ってきた事は、【山】で最も情報通であると言えるこの二人でなくても周知の事実となっていた。

   嶺は金色のとんがり頭を揺らしてソファーに深く寄りかかると、相変わらずの笑い顔で堅哉に問い掛ける。

「それで? 堅哉はどう思うんや、今度の事件の事?」
「そうですね……先程報告に来た時は『好機』だと思ったのですが…いかんせん、”翁”以外では【五行】最強と謳われたあの伊達 燈火ですら、あのバケモノジジィに傷一つつける事ができなかったわけですから…」

   堅哉は溜息と共に語尾を濁し、視線を下に落とした。”翁”の強さは想像をはるかに超えていた。堅哉の考えでは、燈火との戦闘で疲弊した”翁”を一気に襲撃してしまおうと思っていたのだが……。庵の側で気配を殺して戻って来る”翁”の様子を確かめようとしていた堅哉の前に、あのジジィは何事も無かったかのように悠然と空から舞い下りたのだった。まるで、どこかへのんびり散歩にでも行ってきたかのように。

(それに、あの時…見られた様な気が……)

   堅哉はその時の様子を思い出してブルッと身震いした。絶対に気付かれてはいないはずだったが、”翁”は確かに堅哉の潜む茂みの方に一瞬振り返ったのだ。心のなかまで凍り付かせるような歪んだ冷笑を浮べたまま。

(まったく……。ウチの隊長ももちろん怖いが、”翁”だって似たようなものだ。……どうして【山】にはこうバケモノばかりそろってるんだろう?)

   堅哉は心の中で毒づきながらも、視線を嶺に戻し、話を続ける。

「あれでは隙をつく等ということは到底不可能と思われます。」
「そうやなぁ……あのジィさんの強さはオレらの常識を超越しとるで、ホンマ。”土剋水”の関係にあるこのオレですら、勝てる気がせぇへん。」

   嶺はそう言いながら糸目をさらに細くしながらニヤリ……と笑う。堅哉はその微笑みを見てまたも背筋が寒くなるのを感じた。勝てる気がしない? 嶺のその絶えざる微笑みを浮べた顔は、とてもそんな事を考えているようには見えなかった。

「ともあれ、や。これで『今回の事件で”翁”の身体的疲労をつく』という自分の考えはポシャッてもうた、ってわけやな。」
「そうなりますね……。」

   堅哉は心底残念そうに言う。元々こうして堅哉を初めとする【土流】メンバー達が【山】の中を飛び回り(いや、正確に言うと”掘り回り”か?)、情報収集しているのは、何とか”翁”の弱点を探すためであった。しかし、調べれても調べても、”翁”の弱点に”なりそうな”情報は手に入っても、事が闘いとなると”翁”の戦闘能力の強大さが分かってきてしまうだけだったのだ。
   だから、今回の事件は嶺を筆頭とする彼ら【土流】のメンバー達に希望を与えていたのだ。役に立つかどうかわからない”翁”の情報よりも確実に、燈火との闘いで傷ついた”翁”を倒す事ができるかもしれない、と。

   しかし、残念な事にどうやらそれはムリなようだった。

「ま、しゃーないな。堅哉、引き続き情報を集めてくれや。」
「ハッ!」

   堅哉は短く返事をすると、一礼して扉の外へと消えていった。

   しかし、執務室を出ていく堅哉と、それを見送る嶺は、まったく違った考えをしていた。

「チャンスやと思うた事は、確かや。けど、『”翁”が燈火クンにやられて戻ってきた所を殺る』んじゃぁ……ダメや。」

   呟きながら嶺のいつもの笑い顔がさらに大きく歪められたものへと変化していく。

「そうや。それじゃぁあの”翁”になんの苦しみも与えられへんやないか……? ヤツにはもっともっともっともっと苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで……」

   嶺は自分の両腕を強く抱きかかえる。まるで暴走しだそうとする両手を自ら枷するかのように。

「オレの目の前に跪き、絶望に打ちひしがれたヤツの表情を見ながら殺らにゃ、意味がないんや……。」

   嶺は消え入りそうな小声で最後にそう呟いた。

   その表情は、邪悪な悦びに満ち溢れていた。
 
 
 
 


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