【五行伝 ― 新緑の道標 ― 】
第二章 ― 決意 ―
3.
カチャッ
暗い部屋の中にドアのノブを回す音が響き渡る。鼻まで布団を引っ張り上げたままベッドの上で体育座りしていた緑はハッと暗闇の向こうにあるドアを見つめた。ドアの向こう側も真っ暗だったのでよくわからなかったが、ゆっくりと部屋に入ってきたのは背の高い人影だった。
「……燈火?」
小さく、緑はそう呼んでみる。心の中では違うという事が――燈火じゃないって事が痛いほど分かっていたのに。燈火は、燈火は……。
「残念だったな……燈火じゃなくて。……俺だよ、緑。」
緑は聞き覚えのあるその物静かな声を聞いて、安堵と、それからほんの少しの落胆が入り交じった溜息を漏らした。
「剣……だね?」
「……そうだ。」剣の声をもう一度聞くと、緑の心の中でもう少し安心感が広がった。ここがどこだかは分からないが、取り敢えず【山】ではないようだし、剣なら自分を”翁”に引き渡す様な事は決してしないだろう。
剣は緑がいるベッドの横に椅子を引き寄せると、蛍光燈の線を引っ張って電気をつける。
パチッ
しばらくチカチカと瞬いた後に煌々と点いた蛍光燈の白い光を受けて、暗闇になれた緑の目が一瞬眩む。猫のように目をしぱしぱさせて瞼を擦る少女を見て剣は思わずクスッと笑う。剣は反対向きに腰掛けた椅子の背に腕を組んで乗せながら、緑の方をじぃっと見つめていた。優しい微笑みを浮べたまま。
その視線に気付いた緑は、思わず頬を紅く染める。「な、なんだい、剣?」
「ん?……いや、なんでもない。」
「……ヘンなのっ」(剣の表情ってこんなに優しかったっけ?なんだかホッとするよ……)
緑は紅い顔で剣から視線を逸らしながら心の中でそんな事を思う。さっきまで一人ぼっちだったけど、今はもう一人じゃない。その事が、傷ついたこの少女の心をかなり救っていた。
「……ねぇ、剣? あれから、どのくらい経ってるのかな?」
「……いや、まだ大して時間は過ぎてない。俺がお前を一ノ瀬ダムで助け出したのが、今朝だ。だから、半日ぐらいだな。」
「そう……」【轟波】に飲み込まれてしまった自分を助けてくれたのは、燈火じゃなかった。緑はそれがやはり事実だったという事がわかってしまって、一瞬悲しそうな表情になる。しかしすぐにニッコリと笑って剣に礼を言った。
「やっぱり、剣がボクを助けてくれたんだね? アリガト、剣♪」
「………。」剣は剣で、そんな緑の心の動きを彼女の豊かな表情からあっさりと読み取ってしまう。なんて素直なんだろう、この少女は。……そんな事は、知りたくも無いというのに。
そして、緑は今更ながら自分の心を読ませまいと、パタパタと手を振りながら剣に別の質問を投げかけた。
「あの…あのさ、剣? ”翁”は……おジィちゃんはどうしたのかな?」
「”翁”とは一ノ瀬ダムの少し手前ですれ違った。……もちろん、気付かれてはいない。お前に止めを刺さなかった所を見ると、どうやら”翁”はお前を……死んだと思っているのだろう。」
「………そっか……。」緑は今度ははっきりと悲しみを表に出していた。”翁”は本気で自分を殺そうとした。「『掟』に従い、お前を始末する」――間違いなく”翁”の口がそう言うのを聞いたし、自分と、それから燈火に向かって【水技】最大の奥義である【轟波】を放った。確かに『抜け』たのは自分達の方だ。そして、『掟』に照らし合わせれ
ば『抜け』は絶対のタブーであり、待っているのは”死”あるのみ、という事は分かっていた。分かっていたのだ、最初から。
”翁”と敵対する事になるというのは。
だから、緑はもう”翁”の事は考えないようにした。そして、ムリヤリ明るい声を出す。
「ネネ、剣? もしかして、剣も『抜け』て来たのっ?」
「……ああ。」その答えに緑はニヤッ♪ と笑って剣を見つめながら詰め寄る。
「どーしてどーして? ネ、教えてよ剣っ♪」
「……まぁ、そのうちな。」ちょっと照れたような顔で、剣はプイッと横を向く。……いつもの剣だ。なんだかとっても安心する。
「エ〜、そんなぁっ! 今がイイよ、剣っ♪」
「……ダメだ。」
「チェッ、ダメかぁ……。イイよーだ、剣なんてっ」いともあっさりと「ダメ」と言われて、緑は剣のマネをしてプイッと横を向いて見せる。それから二人は同時に互いの方へと向き直って、吹き出した。
「アハハハハハ、なんだか可笑しいね、剣♪」
「……ああ、そうだな。」しばらく剣は笑っている緑を微笑みながら見つめていたが、急に真剣な表情になる。緑も、その剣の表情の変化に気付いて、笑うのを止めた。
「……どしたの、剣?」
「緑…………聞けよ。」緑は剣の短い言葉の意味を一瞬にして掴んだ。そして、今まで知ってしまうのが怖くて避けてきた”その質問”を、口に出さなければならなくなった事を知る。
「ウン……燈火は?」
緑は恐る恐る、口を開いた。自分の声がかすれているのが分かる。
「…………いない。」
「え? いないって……どーいう事なの?」
「わからない。俺が来た時には、一ノ瀬ダムの回りにはもう燈火の姿は……無かった。」緑は両手で口を抑える。また、涙が溢れて来るのが分かる。でも、止める事なんて出来やしなかった。
「じゃぁ、やっぱり、やっぱり燈火は……!」
「いや、まだそうと決まったわけじゃない。”翁”が完全に燈火に止めを刺さなかった事は遠目にも明らかだったし……燈火の死体が見つかったわけじゃない。」
「でも、でも……」緑はふるふると首を降った。その拍子に、大粒の涙が彼女の大きな瞳からポロポロ零れ落ちる。
「燈火……」
消え入りそうな声で呟く緑に向かって、剣が突然手を伸した。
「え……?」
「……緑、元気を出せ。」緑の小さな手を握ったまま、剣が優しく励ましの言葉を投げかける。月並みな言葉ではあったが、この数日間だけで本当に……本当に色々な事が降りかかり、深く傷ついた今の緑にとっては、剣のその優しさが胸に響いた。
……嬉しかった。
「アリガト……アリガト、剣。」
緑は片手で涙をぬぐう。でも、涙は後から後から溢れて来るのだった。
剣は、そんな緑が落ち着くまで、ずっと手を握っていてくれた。
やわらかな沈黙が二人を包み込んでいた。
「……もう大丈夫だよ、ホントにアリガト、剣っ♪ でさ……」
「ん?……なんだ、緑?」緑は泣き止んでからもしばらく黙って俯いていたが、唐突に明るい声を出した。そして、なぜだかニヤッと微笑みながら剣を見つめた。
「……な、なんだ、緑。」
そんな緑の視線に、思わずどもる剣。
そして緑は……”爆弾”を落とした。
「ネ、剣? なんでボクはハダカなのかな〜?」
その言葉に、剣の時間が完全に凍り付く。次第に剣の顔が紅く染まっていき、汗が、ダラダラと滝の様に流れ出す。
「……えっ!? い、いや、その、なんだ、それはだな、お前が水に濡れててだな、あのままじゃ風邪を引いてしまうと思ったからで、別にそんなヘンな意味じゃなくだな、緑、いやその……」
「プッ♪」ちょっとからかっただけなのに、かわいそうなほどに取り乱してしまった剣を見て緑は思いっきり吹き出した。
「あはははははははははっ!剣、おっかし〜のっ♪あはははははははははっ♪」
緑はお腹がよじれるくらいに笑った。あんまり可笑しくて笑い転げたので、羽根布団がずり落ちそうになった。それを慌てて首まで引っ張り上げ直してから、また笑う。
「緑……。」
「ご、ゴメンゴメン剣っ、だって、ボ、ボクお、可笑しくて……あはははっ♪」あまりに笑われたので逆に落ち着いてしまった剣は、ジト目で緑の方を見る。緑は剣の視線に気付き、なんとか笑いをこらえてマジメな顔を作りだした。
「ウン、ゴメン剣、もう笑わないよ。ただ……」
「ただ?」まだなにか続きそうな緑のセリフに、剣はいやな予感が頭を過ぎったが、平静を装って聞き返した。緑はそんな剣の方をじぃっと見つめながら、ピッ♪と人差し指を立ててウィンクする。
「ただ、下着は脱がさないでほしかったナ♪」
「○□×▲◎×!!!」ここは、剣と燈火が”仕事”の時に密かに使う隠れ家。
言葉にならない剣の叫びと、またも吹き出して大笑いする緑の声が、家中に響き渡ったのだった。
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