【五行伝 ― 新緑の道標 ― 】
第二章 ― 決意 ―
5.
リィーリィーリィー……
リリリリリリリリ……
……ザァァァ………一ノ瀬町はすっかり宵闇に包まれていた。宿の窓から見える景色にはポツン、ポツンとしか灯りが見当たらない。こんな田舎ならもっと静かでもよさそうなものだが、実際は虫の声や川のせせらぎの音がやたらと耳についた。
彰介は窓辺の古ぼけた藤の椅子に着崩した浴衣姿のままで腰掛けて、袂から取り出した捻くれた煙草に置いてあったマッチで無造作に火を点けた。シュボッ…
一服目から煙を肺一杯に吸い込んで、それからゆっくりと青白い煙を窓の外に向かって吐き出していく。煙草の先から揺らめく煙が立ち昇り、窓を通って部屋の外へと逃げていく。彰介は見慣れた煙の動きを何とはなしに目で追っていた。すると、ふいに風向きが変わり、部屋の中に向かって煙が舞い戻って来た。彰介の視線も、その煙の動きを追うようにゆっくりと窓の外から部屋の中へと移っていく。と同時に、ひなびた温泉旅館の一室の真ん中に敷かれた布団で眠る若い男の姿が視界の端に入って来た。
「………一体、何者なんだ? てめぇは……?」
彰介はぐっすり眠っていて答えるはずも無いその男に向かって問い掛ける。時折苦しそうな声を出しながらも深い眠りに落ちたままのその男を見ていると、彰介の脳裏に先ほど宿の女将に頼んで無理矢理この部屋に町医者を呼んでもらった時の事が思い起こされる。
今日の昼間に一ノ瀬ダムのほんの少し下流で拾ったその”若い男”を、彰介は自分の滞在する、このくたびれ果てたような温泉旅館に連れてきてしまっていた。なぜか、彼はその男を警察や、救急隊員に引き渡す気になれなかった。……いや、”なぜか”ではなかった。若い男は身分を証明するものを何一つ持っていなかったのだ。このご時勢に、持ち物から名前すら分からないというのは、非常に不自然な事に思われた。
(まるで、てめぇの素性を意図的に隠さなきゃならねぇみたいに、な……)
そんな事を考えながら、彰介は町医者がてきぱきとその若い男に薬を塗ったり、包帯を巻いたりする様子を眺めていた。
「……で、どういった具合なんでしょうかねぇ?」
治療が終わり、診察道具を片づける医者に向かって、痺れを切らして尋ねる彰介。口髭を生やした割腹の良い紳士風のその町医者は、包帯と傷薬医療鞄に仕舞い込み、点滴がぶら下がっている器具の高さを調節しながら驚嘆の篭る声で彰介の質問
に答えた。「驚異的な回復力だよ、キミ。全身の至る所に打撲個所があり、さらに10個所にはなにか……そう、鋭利な刃物の様なもので刺された跡がある。しかし、傷口はすでに塞がりかけているし、命に別状は無いようだ。……まったく、信じられない事だよ。」
「そう、そうか。……どうもありがとうございます。」町医者の「大丈夫だ」という言葉に、彰介はペコリと頭を下げる。別に見ず知らずのこの男を治療してもらった事に対して礼を言う必要はないのかもしれないが、彼にはなんとなくそうする事が自然に思われた。
「しかし、重傷である事には変わりはないよ、キミ。どのような理由があるのかはワシにはわからんし……もちろん聞きもしないが、早いうちに病院に連れて行く事だ。」
「……わかりました。」彰介は部屋の入り口まで医者を送っていくと、またペコリと頭を下げる。それからゆっくりと振り返ると、後ろ手にふすまを閉じながら、フゥ〜…と長い長い溜息を吐いたのだった。
「命に別状はねぇ、か。……俺だって信じられねぇよ。」
煙草の煙を今度は室内に向かって吐き出しながら、彰介は誰に聞かせるとも無く呟いた。常人なら死んで当たり前の様な傷を負ったのにも関わらず――それも今日の朝に、だ――もうすでに病院に連れて行かなくてもなんとかなるほどに回復してしまっているこの男。……絶対に普通ではなかった。
「やっぱりコイツは拾い物だぜ……そうさ、間違いねぇ。」
彰介は自分のカンを信じていた。この若い男を拾った事で、長年追ってきた”あいつら”の正体に少しでも近づけるに違いない。……いや、それだけではなく、もしや……!!
「早く目を覚ましてくれよ、兄ちゃん……」
すでに確信に変わりつつある期待を胸に、彰介はまるで恋人に呼びかけるかのような口調で、眠りつづける若い男に向かって話しかけた。
若い男は、彼の声が聞こえているかのように低くうめいて体を捩じらせた。
真っ暗だ。
(ここは……どこだ?)
まるで、【山】の中の様に。
(オレは……一体……??)
何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。
(オレは……死んだのか?)
そう、何一つ。
ザ……ァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!!
突如として、漆黒の闇の中に耳をつんざくような轟音が鳴り響いた。同時に闇の彼方から蒼く光る巨大な津波が現れ、信じられないようなスピードでこちらに迫って来る。
(うわああああああああああっ!?)
必死で逃げようとするが、意志に反して体が動かない。まるで、その場に縫い付けられてしまったかの様だった。
(ぬ、縫い付けられた!?)
そう思った途端に、体の至る所に激痛が走る。自らの体に目を走らせると、薄蒼く輝く水が、足を、腿を、腹を、胸を、肩を、腕を、手を……体中を貫いて、彼を――燈火をその場に止めていた。
(く、クソッ!)
燈火は何とか体を動かそうともがく。いや、もがこうとする。しかし、体は愚か指一本ですら、動かす事は出来なかった。
そうやって戒めと戦い続けている内に、輝く大津波はすでに見上げるほどの距離まで迫ってきていた。津波に飲み込まれてしまうまで、もういくらも時間がないに違いない。
(もうダメなのか……?)
燈火がそう思った瞬間。唐突に、津波の向こう側にさらに巨大な白髪の老人が浮かび上がる。狂気に血走った目、裂ける程に歪んだ口元に残虐な微笑みを浮かべて、虜囚の身となった燈火を見下ろしていた。
「フォッフォッフォッフォッフォッフォッフォッフォッフォッフォ!! オヌシはワシには勝てん! そう、決してじゃ!!」
(クッ!?)
声高に嘲笑する”翁”の言葉に歯噛みする燈火。しかし、なに一つ抵抗する事は出来なかった。苦しみもがく燈火をねめつけながら、”翁”は片方の眉毛をぴくりと持ち上げる。白く長い眉毛の影から、紅く輝く眼窩が覗いた。
「そしてキサマは緑も守れなかった。……見るのじゃ。」
そう言った途端、”翁”の巨大な手のひらの上にぐったりと力無く横たわる少女が現れる。血に塗れた顔面は蒼白で、生気が全く感じられない。
――緑だ。
(緑っ!! 緑ーーーーーっ!!!!)
燈火は倒れ付す少女の名を叫ぶ。力の限り。しかし、動かない口から声が発せられる事は無い。声にならない声が緑に届く事も、無い。
少女は、身じろぎもしない。動かない。
「……オヌシじゃ。オヌシの所為なのじゃ。全てはオヌシの弱さ、力の無さの所為じゃ。」
(そうだ、俺の所為だ。俺の、俺の……!)
白く、蒼く逆巻きながら迫り来る津波の顎に隠されて、その巨大な顔にどす黒い嘲笑を浮かべる”翁”も、その掌の上で紅い血を流して横たわる緑も、もう燈火の目には映らなかった。
響き渡る轟音と共に崩れ落ちる津波に飲み込まれていく燈火の耳に、ただ”翁”の声だけが響いて来る。
「……力が無いのじゃ。」
(俺がもっと、もっと強かったら……!)
「……今のオヌシではワシには勝てん。」
(力が欲しい。誰にも負けない……!)
「……今のオヌシでは。」
(緑を守れる力が!)
「緑っ!!!!!!!」
ガバッ!
動かないはずの口から、絶叫が迸り出た。同時に燈火は首まで掛けられた布団を跳ね上げて飛び起きる。玉の様な大粒の汗が彼の額から滴り落ちた。息が荒い。体の至る所が軋むように、刺すように痛んだ。
「こ、ここは……??」
緩慢な動きで自分が寝かされていたその見慣れない部屋の中を見回す燈火に、同じく聞きなれない声が投げかけられる。
「よう、兄ちゃん。……目が覚めたみてぇだな。」
燈火は、ぼんやりと霞む頭を引きずるように、ゆっくりと声の主の方へと振り返った。
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