【五行伝 ― 新緑の道標 ― 】
 
 
 

第二章 ― 決意 ―
 

6.
 

ボゥ…ボボボゥ……

   輝煬は【山】の中にある自室の中央に座り込んでいた。”自室”とはいっても、唯でさえ普通ではない所の多い【山】の中ですら、これほど特異な空間は他に無いという様な場所だった。
   正面の壁に大きく描かれた晴明紋(五芒星の星型)。床に描かれた巨大な風水羅盤の様な八卦図。その周りには、正確に東西南北の方向に松明台がパチパチと音を立てて燃え上がっている。松明台には青龍・白虎・朱雀・玄武の四神が描かれた呪符がそれぞれ貼られていた。中央の輝煬の目の前には左右に幣帛(へいはく。長方形に切られた紙が数多く吊るされたもの)の置かれた小さな台の上に、小さな炎がチラチラと燃えている。
   その他、部屋の中にはありとあらゆる陰陽道の占術・呪術の品が棚や台の上に整然と並べられていた。様々な人形(ひとがた)・色とりどりの呪符・幣帛・鉾・言霊図・風水羅盤・蟲毒の壷・等々……それらの品々は、ゆらゆらと揺らめく松明の明かりによって不気味に照らし出されている。

   そして、紅い装束に身を包んで瞑想し続ける輝煬の姿も、同じようにゆらゆらと照らされていた。松明のほの暗い明かりの中では、輝煬の紅装束はまるでどす黒い血の色の様に見えた。

「オン!!」

   突如、四つの松明と八卦図の中央で輝煬が吠える。と同時に、左手で印を切りながら、目の前の台で燃える炎に右手に持った呪符を素早く近づける。

ポッ……

   一瞬にして、呪符に炎が燃え移る。しかし、不思議な事に炎は呪符を完全に焼き尽くす事はなく、ゆっくりと、まるで無数の蛇のようにその赤い身体をくねらせて輝煬の右手に向かって昇っていった。赤い炎の蛇が通り過ぎた跡が、黒い炭状になって呪符の上に幾何学的な文様を描いていった。輝煬はその様を満足そうな笑みを浮べながら眺めている。
 
 

(うわ〜、まぁたやってるよ、アイツ……)

   居住区の一角にある輝煬の自室のすぐ表に辿り着いた渚は、全力で気配を殺しながらわずかに開けたドアの隙間から部屋の様子を伺っていた。渚に覗かれているとも知らずに、輝煬はニタニタ笑いながら呪符に占術の結果が現出していく様に見入
っている。

(わ、笑ってるし……もう、これだから輝煬はイヤなのよ……)

   渚は心の中でフゥッと溜息を吐きながら輝煬の笑い顔から目を背けた。渚だけでなく、輝煬を好きな人間を見つける事は、例え【山】中の人間一人一人に聞いてまわったとしてもなかなか見つけられないに違いなかった。
 

   【山】には「木・火・土・金・水」のいわゆる【五行の能力】とは別の能力――【占】と【呪】、すなわち「呪術・占術」といった能力に長けている者がいた。その内の一人がこの神保 輝煬である。
  しかし、【占】・【呪】、そして【五行の能力】の三つの能力が組織内で拮抗していたのは遠い過去の話であった。ほぼ完全な”暗殺者集団”となってしまった現在の【五行】では、実用価値のあまり無い【占】と【呪】の能力は非常に軽んじられるようになっていたのである。単に【能力】と言えば【五行の能力】を差すほど
に。
   今となっては、この二つの能力はわずかな者達が細々と伝えているにすぎなかった。それが、【占家】と【呪家】である。その二つの家系にはいわゆる【五行の能力者】はあまり生まれず、それぞれの能力をある程度まで普通の能力者に教える役割をこなす為だけの存在だった。輝煬は両家の間に生まれた本当に久しぶりの【能力者】だったのである。
 

   ともあれ、【五行】内部では【呪占家】出身の者を嫌ったり、軽視したりする風潮が非常に根強いのであった。……ただし、渚が輝煬を嫌っているのは、唯単にその性格が気に入らないからだったが。

(ああ、もう! ”翁”が輝煬なんかに剣の追撃を命じるからこんな事になるのよっ)

   渚は心の中で毒づきながら、輝煬の手元の呪符の方へ視線を戻す。ちょうど、赤蛇の最後の一匹が輝煬の手に到達したところだった。
 
 

「終わったな」

   呪符を上り切った赤い蛇達は全て、輝煬の右手の中に吸い込まれるように消えていった。それから輝煬はおもむろに立ち上がると、スタスタと歩いて部屋の隅にある机の前に置いてある椅子にドカッと腰掛ける。机の上にはすでにその身に占いの結果を宿した呪符が数枚、無造作に置かれている。  そして、不可思議な文様が浮かび上がった呪符を目の前に持っていくと、じぃっと見つめた。

「ホゥ、こりゃぁおもしれぇ。『剣を追っていくと、一番会いたい者に会える』って出てやがらぁ。ヘッヘッヘ……」

   輝煬は机の上にその呪符を放り出して、右手で顔を隠すようなしぐさをする。しかし、彼の口が「ニタァァ…」と三日月型に変化してしていくのが指の間からはっきりと分かるほどに覗いていた。

「フッフッフ……俺が一番会いてぇヤツっていえば、アイツしかいねぇやな。ヘッへッヘッヘ……そうかぁ……クゥックックック……」

   押し殺した声で笑いつつける輝煬。その様子を見ていた渚の背中に寒いものが走る。

(うえ〜、私やっぱりコイツ嫌いだよ〜)
「クックックックック……」

   渚はそう思いながら両手で身体を抱きかかえる。渚にとっては永遠とも思える長い間。輝煬は押し殺した下卑た笑い声を上げ続けていた。
 
 
 

「……緑?」
「ナニ、剣?」

   ひとしきり笑ってから、なんとなくずっと黙ったままの二人だったが、剣が沈黙を破って話し出した。

「これから……どうするんだ?」
「ウン……」

   静かに聞く剣の言葉に、緑は生返事で答える。今の自分の状況は、【山】を『抜け』る前に、緑が持っていた予想図とはかけ離れたものになってしまっていた。燈火をこの逃避行に誘ってOKしてくれた時から、緑は「これから二人で生きていくんだな」と漠然と考えていた。燈火が自分の気持ちを受け止めてくれるかどうかはもちろんわからなかったけれど。……少なくともずっと一緒にいるんだろうとは思っていた。

   しかし、今自分の側に居るのは、燈火ではないのだ。

「分からないよ……」
「そうか……」

   ポツリ、と呟くように言う緑の言葉に頷く剣。もちろん剣が側にいてくれる事が緑には本当に、本当に嬉しかったし、剣のおかげで大分立ち直る事が出来た。でも、燈火はもういないのだ。あれだけの傷を負っている状態で”翁”の繰り出した凄まじい【轟波】に飲み込まれて、燈火は生きていられるのだろうか? もちろん、生きていると信じたい。あの燈火がそう簡単に死んでしまうなんて考えられない。

(でも、でも……燈火……。)

   また少し、苦しそうな顔になった緑を見て、剣は自分の無力さを痛感していた。やはり、自分ではこの娘に本当の微笑みを与えてやる事は出来ないのか? そんな考えが頭を過ぎる。しかし剣は浮かび上がりかけた弱気な考えを一瞬で打ち消して、ギシッと音を立てて椅子から立ち上がった。

   そして、優しい目で緑を見下ろして静かに言った。

「緑。今日はもう寝るんだ。」
「……剣?」

   あまりにも唐突だったので、緑は少し不思議そうな顔で剣を見上げる。しかし、すぐに剣の言葉の意味を理解して「コクン」と小さく頷いた。確かに、自分は疲れすぎている。このまま答えのでない疑問をぐるぐると頭の中で考え続けるよりは、今は剣の言うとおり良く眠って休息を取る事が必要だろう。

「これからの事は、明日からゆっくり考えればいい。今日は、何も考えずに安心して休むんだ。この場所は俺と……それから燈火しか知らない。絶対大丈夫だ。それに……俺がついてる。」
「……アリガト、剣。」

   緑は、また涙が溢れて来るのを感じたが、すぐに目をゴシゴシと擦ってニッコリ笑って剣を見上げる。そうだ、明日の事は明日考えればいい。今だけは。

「ホントに色々アリガトね、剣♪ おやすみなさい。」
「……おやすみ、渚。」

   緑が羽根布団を被って横になるのを見届けると、剣はくるりと踵を返してドアの方へ向かう。

パチッ

   また、部屋の中を暗闇が支配した。剣は一度だけ肩越しに緑の方へ振り返ってから、ゆっくりと部屋から出ていった。

   さっき目を覚ました時とは違う、少し優しい闇の中に抱かれながら、緑は小さな声で呟いた。

「ゴメンネ…剣……」

   もちろん、その声は剣には届かなかった。
 
 
 
 


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