「−まほろば− なんてステキなありふれた日々」3 藤原眠兎



 第壱話 約束(3)



 いつの時だっただろう、初めて出会ったのは。
 いつの頃からだろう、一緒にいるのが当たり前になったのは。
 当たり前の事。
 当たり前の時間。
 失いそうになって初めてわかる、大切なもの。
 でも、わかってしまったことで変わってしまうもの。
 どうすればいいんだろう。
 なくしたくない。
 でもわかりたくない。
 失ってしまう事と変わってしまう事、どっちの方がいいんだろう?
 どうしたらいいのかわからない。
 どうしよう
 どうしよう
 どうしよう…
 時間ばかりが過ぎてゆく。
 あたしの
 あたしの答えは…


−12−

 日曜日。
 一般的に休日と呼ばれる一日だ。
 それはここ、セブンスムーンでも変わらない。
 家族サービスをする者、出かける者、働いている者…
 する事は人それぞれだ。
 あいにくの曇り空だが、それでも人々は休日を楽しもうとする。
 もっとも"楽しめる"とは限らないのだが。
「よし、頑張れよキリエ。」
 セブンスムーンセントラルシティパークの入り口で、ガルはかたわらのキリエの背をポ
ンっと押しながら言った。
「うん…ありが、と」
 やたらと緊張した様子でキリエが答える。
 眼鏡をかけているのは相変わらずだが、それ以外は普段と全然異なっていた。
 髪型はいつもの三つ編みではなく後ろでアップにしてまとめ、隠れがちだった細くて形の
いい眉毛も額も表に出して明るい印象になっている。普段はいっさいしない化粧も今日は
薄くあまり目立たぬようにだが、本来のキリエの魅力を十二分に引き出していた。
 ガルがキリエに施した魔法。
 それは本来のキリエの美しさを引き出す"コーディネイト"と"メイク"。
 "魔粧師"
 ガルはそう呼ばれる特殊な魔術の後継者だった。
 "魔性師"は"魔粧"と呼ばれる特殊な化粧品と技術を用いて、魔的な力を引き出す魔術
技術なのである。
 もちろん、キリエに施したのは"魔粧"では無い。
 普通の"コーディネイト"と"メイク"だ。
 ただ、"魔粧師"の施すそれは、一般的な人よりははるかに効果的なのだ。
「私…頑張ってくる、ね」
 にこり、と笑顔を浮かべてキリエは言った。
 もう引き返せない。
 後は進むだけなのだ。
 朝から一生懸命に手伝ってくれたガルくんのためにも勇気を出さなくちゃ。
 キリエは、そう心で呟くと重くなりがちな足をゆっくりゆっくりと進める。
 ガルは黙って歩み去って行くキリエの背中を見つめていた。
「…馬鹿だな、俺」
 ふと思い出したようにガルの口から言葉が漏れる。
 自分の好きな人が自分以外の人間に告白するための応援をする馬鹿がこの世のどこ
にいるってんだ?
 そんな事を考えながら頭を苛立たしげに掻いた。
 自分には勇気が無かった。
 だからせめて、好きな人のために出来る事をしたかった。
 作業を終えた時のキリエの驚きと喜びの顔。
 それが見れただけでも…
「充分だったら、大人だよなぁ…」
 ため息混じりに漏れる本音。
 空を見上げれば曇り空。
「お人好しめ」
 そう呟くとガルは走り出していった。



−13−

「…うわぁ…すごい顔…」
 虹は鏡に映る自分を見て、ぼそっと呟いた。
 目の下には薄くくまが出来ている。
 傍目にも悩み事がありそうな顔だ。
 昨日今日とゲンキが留守にしてるのがせめてもの救いかもしれない。
 もしも何か聞かれたとしても、虹はなんて答えていいのかわからなかった。
「眠れないんだもんなぁ…」
 虹にとって初めての体験ではあった。
 なかなか寝付けない。
 眠っても夢を見る。
 何かに追いかけられて、必死に逃げて逃げて…いづれ崖っぷちに追い詰められる夢。
 誰かを呼ぼうと思っても声が出ない。
 そうこうしているうちに、崖から突き落とされてしまう。
 そんな夢だ。
「どうしよう…出かけよう…か、な…」
 今日は日曜日。
 いつもだったら何をして遊ぼうか、とやりたい事がありすぎて困ってしまうぐらいだ。
 ところが今日はいつもとは違って、ただ、じっとしていたくない、と思う。
 ふと見ると時計の針は9:30を指していた。
 カチコチカチコチ。
 秒針が進む。
 分針が動く。
 時針が揺れる。
 カチコチカチコチカチコチ…
 放っておいても時間だけは過ぎてゆく。
 虹は軽く首を振ると、いつもの赤いバンダナで髪をまとめると食事もとらずに家を出た。
「もうそろそろ…かなぁ…」
 あても無く歩きながら、虹はふと呟いた。
 光流に届いたラブレター。
 指定された時間は朝10:00。
 気の早い光流くんの事だから、きっともう待ってるはず。
 そう思うと、自然と気分が落ち込んできた。
 ずきずきずきずき…
 胸が、心が痛い。
 痛くなんかない。
 そう思うたびに余計ひどく痛くなっていく。
 あたし…イヤ、なの、か、なぁ…
 虹はポツリと心の中で呟く。
 ほんの少しだけ痛みがおさまったような気がした。
「どうしたらいいのかな、あたし…」
 自然と口から言葉が漏れる。
 誰も答えてくれないのはわかっている。
 答えは自分で出さなきゃいけない。
 どうしよう、どうしよう…
 ふらふらとあてもなく歩く、虹の頭の中をそんな思いがぐるぐると回る。
 ガチャリ。
 不意に重い金属音が虹の耳を打った。
 深い思考の海に沈みこんでいた意識が急激に現実に引き戻される。
「…知らない…場所?迷っちゃったのかなぁ…」
 周りを見回しながら呟いた。
 違う。
 自分の言葉に心の中で反論する。
 寝不足でボケた頭に喝を入れるように、バンダナをほどいて強く結びなおした。
 セブンスムーンに、少なくともこの辺りに知らない道なんて無い。
 ガチャッガチャッガチャッ…
 重い金属音が近づいてくる。
 ふと気がつけば日曜日で賑やかなハズの街中は誰一人として歩いていなかった。
 そんなバカな事、あるはず無い。
 きっと何者かの結界にでも引きずり込まれたのだろう。
 虹は反射的に自分の腰に手を伸ばし…
「うそ…わすれてきちゃったぁ…」
 と、心底情けない声を出した。
 本来そこにあるべき護身の剣は、家の道場に忘れ去られたままだった。
 普段だったら絶対にしないミスだ。
「どうしよう…そうだ、『五皇』!」
 虹はいつも困った時に頼ってきた『五皇』を呼び出そうとした。
 だが待てど暮らせど『五皇』が召喚される様子は無い。
「どうして!?」
 思わず悲鳴じみた言葉が口から漏れる。
 ガチャッガチャッガチャッガチャッ
 虹の存在に気付いたのか金属音がどんどん近づいてくる。
「ど、どうしよう…」
 こんな時、不思議と何とかなってきた。
 誰かが自分に力を貸してくれたり、守ってくれたり…
 でも、今は心底一人ぼっちだった。
 誰も力は貸してくれそうも無い。
 ガチャッ!!
 ひときわ大きな金属音が響いた。
 視線を向けると、そこには黒い巨大な物体が立っていた。
 身の丈3メートルほどはあろうか、鈍い光沢を放つ黒い鎧をまとった…『闇』だった。
 まるで影が質量を持ったかのように鎧を身に纏い、凍えるような"殺気"を漂わせてい
る。
「あの…」
 今、自分の身を守るものは無い。
 虹は恐怖にすくみそうな自分を励ましながら尋ねる。
「ひょっとして…あたしに何か…用なのかな?」
「チカラダ…ワレガノゾムハ、テキトチカラ…」
 まるで大地がうなるような低い声と共に闇の巨人は、まるで闇から抜き取ったような黒
い大剣を抜き放った。
 2メートルは超えようかという巨大な剣だ。
 かすっただけでも、致命傷になりかねないような物騒な代物である。
「えーと、他をあたってくれないかなぁ…」
 背中に冷たいものがつたうのを感じながら虹は言ってみた。
「ナラヌ…オマエノチカラ、モライウケル!!」
「うわーん、やっぱりぃ!!」 
 剣を振りかぶった闇の巨人にくるりと背を向けると、虹は全力で走り始めた。
 ずうううん!!と背後で派手な音がする。
 見てはいけないと思いつつ後ろをちらりと見ると、闇の巨人のたった一撃で民家が一つ崩
れていくのが目に入った。
 死んじゃう!
 あんなのに殴られたら死んじゃうよ!!
 虹の背後でズーン、ドカーン、と鈍い音が立て続けに響く。
 虹は認識を新たに必死の思いで走った。
 あてもなく、知らぬ街並みをただひたすらに走る。
 まるで、終わりの無い悪夢。
 それでも今の虹に出来る事は逃げる事だけだった。
 逃げればいつか、なんとかなる事を信じて。



−14−

 9時45分、セブンスムーンセントラルパーク内大噴水前。
 すでに45分前に来ていた光流はボケっと周りのカップルや家族連れを眺めていた。
 光流にだって思うところが無かったわけではない。
 好きとか嫌いとか、そういった恋愛感情にいまいち疎い光流は、わかりそうな人物に徹底
的に質問しまくった。
 父さんや母さん、クレインさんや京介兄さん、髪を切ってもらっている時に時魚さんや風
舞さんにも聞いた。
 好きってなんだろう。
 恋ってなんだろう。
 好きになるってどういう事だろう。
 同じ質問なのに返ってくる答えはみんな違った。
 いわく、相手を大切に思う事だの、その人のことしか考えられなくなる事だの、その人の
ためなら死ねると思えるだの、説明できないだの、それはもうバラエティに富んだ答えをも
らった。
 どれが正しいなんてわからない。
 きっとどれもが正しいんだろうと思う。
 自分に送られてきた想いに対して誠実に答えたいから…光流は一生懸命に考えていた。
 自分にとって、"好き"ってどんな事なのかを。
 答えは…出たような、出ていないような。
 ふと顔を上げると、何やら一人の少女と目が合ってしまった。
 眼鏡をかけた、真面目そうな女の子。
 アップにした髪とピンク色の唇が似合っていて素直に"可愛い"と思える外見だ。
「君…キリエさん?」
 光流はそういって声をかけた。
 手紙ではぴんと来なかったが、顔を見てわかる。
 確かに会った事があったし、世話した事もある。
 前と雰囲気も髪型も全然違ってはいたが思い出した。
「あ、はい…きて、くれたん、ですね…」
 顔を赤くしながら答えるキリエ。
 光流は頭をぼりぼりとかくと、たんっと勢いよく立ち上がる。
 ひどく口の中が苦い。
 自分の言葉がこの子を傷つけるかもしれないと思うと、やるせない気持ちになる。
 でも、きっとはっきりしない態度が一番傷つける。
「前見たときと、ずいぶん感じが違うね」
 やはり、どこか逃げ腰になっているのか口から出たのは違う言葉だった。
 今まで戦ったどんな相手よりもある意味手強い。
「あ、はい…あの…友達が…わたしを…変えてくれたんです。」
 心なしか嬉しそうにキリエは答えた。
 光流は、少し考えるような仕種をしてから続ける。
「すごく…可愛くなってる。友達は…男?」
「はい?そうですけど…」
 キリエは怪訝そうに言った。
 光流は頭をぼりぼりとばつが悪そうに掻く。
 そして決心が決まったのか、光流は改めてキリエの前に立ってその顔を覗き込んだ。
 たちまち赤くなるキリエ。
「手紙の件だけど…」
「あ、ごめんな、さい。あたし、呼び出しといて…ちゃんと、いわな…」
「ストップ」
 光流は見た目よりも大きな右手で、しどろもどろに喋るキリエの口を軽くふさいだ。
 何事かとキリエが目を丸くする。
「…俺さ、急に感じ変わっただろう?」
 光流の問いに、こくこくとキリエはうなずいた。
 確かに今すぐ舞台の主役をはれるぐらいかっこいい。
「俺、いつも一緒にいる女の子がいてさ…その子がやってくれたんだ。」
「………」
 神妙な顔でキリエは聞いていた。
 光流は自分の考えの糸をなんとか紡ぎながら、言葉という名の布を織る。
「そういう意味では、きっと俺よりも、俺の事を知ってたんだと思う。俺、好きとか愛してると
か、そういった事ものすげ〜うといから上手く言えないけど…えーと…俺、その子のこと守
りたいんだ。子供の時から、ずっとずっとそう思ってきた…だから…えーと…」
 なんだかだんだん自分でも何が言いたいのかわかんなくなってきた。
 光流はこんがらがらがった自分の頭を冷やそうと深呼吸をする。
「…光流さんの、きもちは、わかりました…」
 今まで黙っていたキリエが不意に口を開いた。
 今度は光流がビックリしたような目でキリエを見る。
「わたし光流さんのことが好きでした!」
 それでも、一息でキリエは光流に告げた。
 自分の気持ちに決着をつけるために。
 悲しい。
 でも、心のどこかはすっきりしている。
 不思議と思ったよりも悲しくはなかった。
「うん…ありがとう。でも…ゴメンな、君の気持ちには答えられない。」
 素直に光流は頭を下げた。

 …るくん…

「…?」
 光流は下げていた頭を上げると同時にすばやく周りに視線を走らせた。
 どこか遠くで誰か呼んでいるような、声。
「あ、あの?」
 急にきょろきょろし始めた光流にキリエが声をかける。

 …つる…ん…

「………」
 光流は目をつぶると、昨日つけたばかりの左耳のピアスに手を伸ばした。
 切ってしまった髪の代わりに時魚が作ってくれた呪具だ。
 ピアスに取り付けられたアメジストが淡く魔力の輝きを放つ。

 …みつるくん…

「!!」
 今度ははっきりと聞こえた。
 ここにはいない、虹の声が。
「ごめん、俺、行かなきゃ!聞こえたんだ!虹ちゃんの声が!!」
 光流は激しい口調で言うと、もう一度周りを見回した。
 切らなかった髪に込められた望みは"虹ちゃんを守ること"。
 その力を受け継いだピアスが伝えてくれるたのは、呟くような祈るような虹の声。
 行き先もわからぬまま光流は飛び出した。
 そう、文字通り光流は飛び出していった。
 公園の木から木を、まるで吹き抜ける風のようにわたり、あっという間に街の屋根の上へ
と消えていく。
 後にはキリエがぽつんと残されていた。
「虹ちゃん…鏡矢先輩の事…かな?」
 そうポツリと呟くと、キリエはふらふらとベンチに座る。
 キリエは光流といつも一緒にいる虹の事を当然知っていた。
 おそらく、お互い想っている事も。
 のけぞるようにして上を見ると、暗い雲が立ちこめ今にも雨が降りそうな天気だった。
 ポツリ。
 水滴が眼鏡に当って弾ける。
 ポツ…ポツポツポツ。
 次から次へと水滴は落ちてくる。
 大好きだった光流さん。
 やさしくて、一生懸命で…いつも笑ってた。
 そんな人が見せた真剣な顔。
 自分にもいつかそんな風に想ってくれる人が出来るのだろうか?
 なんだかひどく心が痛んだ。
 自分が無価値な人間に思えてきて、みじめで、悲しくて、さびしい。
 雨に打たれるのも構わずに、キリエは呆然と雨空を見上げていた。
「…風邪、引くぞ」
 そんな声と共にキリエの視線は藍色の布でふさがれる。
 傘だ。
「…ありがとう…」
 そういいながらキリエは声の主に視線を向ける。
 そこには傘を持ったガルが、穏やかな表情で立っていた。
「なんだ…そう、だったんだ…」
 光流さんが自分の言葉をさえぎった事。思ったよりも悲しくなかった事。ガルくんの顔を見
た瞬間にほっとした事。
 それらが全て結ばれ導き出された一つの答え。
「…気に、すんなよ。きっと次は…もっといい出会いがあるさ。な?」
 キリエの呟きが聞こえなかったのか、ガルは励ますように言った。
 ポタっと、キリエの頬を伝って水滴が落ちる。
 冷たい雨ではなく、目からあふれ出る涙。
「…うん…ありがとう…ありがとう…」
 次から次へと涙が溢れ出す。
 こんな自分を見ていてくれる。
 告白する事で自分が変われたかどうかはわからない。
 でも、その事で気付けた事が少なくとも一つはあったのだ。
 ありがとう。
 もう一度心の中でそう呟いて、キリエは素直にガルの胸に飛び込んだ。
「…ととっ…」
 ガルはキリエをかろうじて受け止め、軽く抱きしめる。
 なにも言わずに自分の胸の中で泣きじゃくるキリエの頭をガルは無言でなでてやった。
 雨は変わらずに冷たく降りつづけている。
 だが、不思議と心だけはあたたかかった。



−15−

「虹ちゃん!!どこだっ!!?」
 光流はたんっ、と強く踏み込んで屋根よりも高く飛び跳ねる。
 一番高いところでぐるりと周りを見回した。
 特に、何も目に入らない。
 入るのは先程から降り出した雨粒ばかりだ。
 あれから虹からの声は聞こえなくなっていた。
 気のせいだとは思えない。
 どこかで必ず、危険な目にあっているはず…。
 そう思うと、虹の無事を願う心と焦りばかりが心を埋めていく。

 こっちだよ…

 跳びまわる光流の心に直接言葉が響く。
「だれだ!?」
 周りをめぐる光流の視線がある1点で止まる。
 そこには淡く輝く純白の羽が漂っていた。

 こっちだよ、みつるくん…

 もう一度声が聞こえた。
 はかなく弱々しくて、今にも消えてしまいそうな声だった。
 
 こっちだよ…

 羽は弱々しい光を放ちながら飛んでゆく。
 雨が降り風が吹いていなくても、羽は光流を導くように流れていった。

 こっちだよ…

 光流は数秒ほど迷い、そしてついて行く事にした。

 こっちだよ…

 どこかで聞いたことがある声。
 いつか…どこかで…。

 こっちだよ…
 …つる…

 導く声に他の声が混じりはじめる。
 左耳のピアスが輝きを増した。

 …だよ…
 …みつるくん…

 逆に導いてくれていた声がかすれ始める。

 …ここ…よ…
 …光流くん…
 
 光流を呼ぶ虹の声がはっきりと聞こえたのと同時にすうっと羽の輝きが消えていった。
「そ…こだぜ!!」
 光流はちょうど羽が光を失った場所に手を伸ばす。
 そこはまるで陽炎のように空間のゆがみが発生していた。
 ぐらり、と世界が歪む。
 ゆがみに指が触れた瞬間、光流は何者かが作った結界の中へと引きずり込まれていっ
た。

『がんばって…大好きな虹ちゃんを守ってね』
 
 不意にはっきりと女の子の声が聞こえた。
 歪んだ世界の中、スミレ色の髪と空色の瞳の天使が光流のそばにいた。
「…ありがとう…俺、負けないぜ!」
 光流はびっと親指を立てると天使に高らかに宣言した。
 やがて釣り針に引っかかった魚のように、光流はすごい勢いで一方向に引っ張られてい
く。
 天使は時と世界の歪んだ狭間の中で、虹の元へと向かう光流をただ見送っていた。
「虹ちゃん、今、いくぜ!!」
 光流は気合の言葉と共に、空間を引き裂いて光流は結界の中へと飛び込んでいった。

『今度は…虹ちゃんと一緒に会おうね』

 天使は空色の瞳を、消えてゆく光流に向けて呟く。

『いつかきっと、ね』

 その微笑みはやさしさと確信に満ちていた。


−16−

 虹はただひたすらに走った。
 追いつかれる事は許されない。
 ズシン、ズシン、と地響きを立てながら巨人は自分を追いかけてくる。
 本気じゃないのか、なぶるつもりなのか、巨人はなかなか虹に追いつかなかった。
 ただ、虹がどこに隠れても、どこに逃げ込んでも、まるで居場所がわかっているかのよう
に正確に追いかけつづけている。
「…どうしよう…」
 虹は我知らず呟いた。
 今はとりあえず、噴水の近くのブティックに逃げ込んでいる。
 もちろん誰もいない。
 結界の中だからだ。
 ただ、品物だけが陳列されている。

 誰か、助けてよ…
 お父さん、お母さん、部下Gおじさん………
 あたし独りじゃどうにもならないよ…

 じわーっと浮かんでくる涙をごしごしと袖口でぬぐいながら、虹はへたり込んだ。
 もう、気力も、体力も、根こそぎ使い果たしてしまった。
 極度の疲労と絶望感が虹から力をうばっていく。
 ズシン、ズシン、と足音が近づいて来る。
 虹はゆっくりと目を閉じた。

 もう…だめ… 
 
『もう、大丈夫だぜ!』

 朦朧とした意識の中、不意に元気のいい男の子の声が聞こえた。

『いつでもどんな時でも、必ず虹ちゃんの事、守ってみせるぜ!!』

 あれ…この言葉…

『俺、騎士になる』

 はじめて…会った時の…

『虹ちゃんを守るために戦う、騎士に!!』

 みつる…くん?

 虹は重いまぶたを開けた。

 みつるくん

 心の中で呟く。

 みつるくん

 いつだってそばにいてあたしの事を守ってくれた。

 みつるくん

 いつもいつも一緒だった。

 みつるくん

 いつだってあたしの事を考えてくれていた。
 
 みつるくん

 あたし、馬鹿だ。こんな簡単な事だったのに…

 みつるくん

 …大好きだよ。

 みつるくん

 まだ、あたしの気持ち、伝えていない。

 みつるくん

 …会いたいよ。

 みつるくん、みつるくん、みつるくん!

 虹は光流の名前を何度も何度も心の中で呟いた。
 呟くたびに勇気が出るような気がした。
 虹は残りの力を振り絞って立ちあがる。
「…ミツケタゾ…」
 不意に扉の方から、地の底より響くような声がした。
 ショウウインドウのガラスの向こうに闇の巨人がいる。

 みつるくん!!

 虹は心の中で叫ぶように強く念じた。
 不思議と勇気が沸いてくる。
「負ける…もんか!魔王呪法!『ソル・ガルド』!!」
 虹からたてつづけに二発、光球が撃ち出された。
 それぞれ巨人の肩と脚に当り、爆発と共に吹き飛ばす。
「…ヌウッ!?」
 驚愕の声と共に爆風で後ろに吹き飛ばされる闇の巨人。
 致命傷は負わせていないものの、動きを止めるには充分だ。
 虹は呪文の爆風できれいに吹き飛んだショウウインドウを通って外へ飛び出した。
 逃げる気は無い。
 逃げたっていつか追いつかれる。
 眠れなかった悪夢と同じだ。
 自分の気持ちだってそうだ。
 逃げてばかりはいられない。
「あたし、負けない…負けられない!」
「………」
 虹の呟きを聞いているのかいないのか、闇の巨人は何事も無かったかのように立ちあ
がった。
 ゆっくりと大剣を振り上げる。
「魔王呪法!『ソル・ガルド』!!」
 再び虹から光球が撃ち出される。
 今度は胸と剣にあたって弾けた。
 やはりダメージはほとんど無いものの、数メートル後ろに闇の巨人は吹き飛ばされる。
「魔王呪法…」
 虹は呪文と共にゆっくりと両手を交差させながら空へと向けた。
 その両手から蒼白く輝く光がすさまじい勢いで溢れ出してくる。
「ソル…」
 あふれ出た光はやがて曲線を描き、両手の上の辺りに集中していった。
 光は束ねられよりいっそう巨大な球へと変じていく。
「…サセヌッ!カゲヨッ!!」
 闇の巨人が剣を持っていない方の腕を軽く開くように振った。
「クラッシャー!!」
 虹は呪文の完成と共に両手を闇の巨人に向かって振り下ろした。
 蒼い、恐るべき魔力を秘めた破壊の使者が、虹の示した方向へと駆け抜けていく。
 触れるもの全てを砕き、消滅させながら遥か空へと破壊の蒼球は消えていった。
 地上に闇の巨人を残して。
「どうしてッ!?…動かないっ!?」
 虹の身体に、闇がまとわりついていた。
 腕に、脚に巻きついた闇が締め上げて、虹の身体を固定している。
 敵を指し示すべき腕は固定され、よどんだ空を指し示していた。
「…ナカナカダ。ダガ、アソビハ…ココマデダ」
 ズシン、ズシンと重量感あふれる、ゆっくりとした歩みで闇の巨人が近づいて来る。
 虹は必死に闇を振り払おうとした。
 足を踏ん張り、腕に力を入れ、身体をねじり、考えつくところ全てに力を入れる。
 まるで自分が人形になってしまったような気分だった。
 どう、身体を動かそうとしても体は動かない。
 蛇ににらまれたカエルというのはこんな気分なのだろうか。
「…やだ…」
 虹の口から言葉が漏れた。
 ズシン、ズシン、と闇の巨人は近づいて来る。
 死への恐怖よりも、後悔の念の方が強かった。
「あたしまだ…言ってない…」
 ズシン、と闇の巨人が最後の一歩を踏み出した。
 やがてゆっくりと大剣が振り上げられる。
「…つる…ん…」
 かすれた声で、虹が呟く。
 不思議と涙は出なかった。
 大剣が大きさに見合った速度で振り下ろされる。
「光流くん!!」
 目をぎゅっとつぶりながら、虹は最後に大きく、はっきりと叫んだ。
 父親でも母親でもゲンキの名ではなく、他でもない光流の名を。

 ガギンッ!!

 何かを強く叩きつける、すさまじい音が辺りに響き渡る。
 身体が宙を舞うような感覚。
「…?」
 痛みは無い。
 何か暖かいものに包まれるような感触。
 優しく、力強く、自分を包んでくれている。
 恐る恐る虹はぎゅうっとつぶっていた目を開けた。
 目に入ったのは服の生地。
 ダークグリーンの落ち着いた色。
「おまたせ虹ちゃん!」
 頭の上から聞こえたのは一番聞きたかった声。
 上を向くと光流のいつもの笑顔が迎えてくれた。
 もう1度ふわりと浮かぶような感覚。
 光流が虹を抱きかかえたまま高く遠くへジャンプしているのだ。
 ふと見ると、みるみる巨人が後ろに遠ざかってゆく。
「…どうして?デートの約束が…」
 どこか責めるような口調で虹は光流に言った。
 言葉とは裏腹にぎゅうっと強く光流に抱きつく。
「もう、断ってきた。」
 トン、と軽く着地すると、光流は後ろの巨人に目を向ける。
 こちらの方に移動は始めているようだが、まだしばらく時間はあった。
「約束」
 光流は虹を優しく降ろすとそう呟いた。
「え?」
 なんだか色々なことが一度に起こりすぎて、虹は頭がちょっとした飽和状態になってし
まっていた。
 助けに来てくれた。
 死ななかった。
 断って…きた?
 そんな言葉がが頭の中をぐるぐる回る。
「したはずだぜ?『いつでもどんな時でも、必ず虹ちゃんの事、守ってみせるぜ!!』って
さ!」
「…うん…」
 じわっと、虹の瞳に涙が浮かんでくる。
 嬉しかった。
 本当に来てくれた事。
 ずっとずっと、約束を守ってくれていた事。
 初めて会った時の幼い頃の約束。
 自分は忘れてしまっていたのに、光流くんはずっとずっと覚えていたのだ。
「えーあー、もう大丈夫だぜ、俺が守るからさ!」
「…うん…うん…」
 涙をほろほろと流す虹の頭をなでてやりながら光流は笑顔を浮かべた。
 ふと、気付いたように光流は、虹のもうボロボロになってしまった赤いバンダナをほどい
た。
 綺麗な赤い髪が束縛から解き放たれてゆれる。
「これ、使ってほしいぜ」
 そう言いながら光流はポケットから取り出した、やはり赤いバンダナで虹の髪をまとめて
むすぶ。
 そして今までのバンダナをちゃんと虹に渡した。
「…これ…」
「虹ちゃんと買い物に行ったときに買っといたんだ。けっこう似合うと思うぜ?」
 虹の疑問に照れ笑いを浮かべながら、光流は答えた。
 虹は、嬉しくて、切なくて、なんだかもうひたすら泣けてくる。
「じゃあ、ここで待ってて欲しいぜ。すぐ、おわらしてくるからさ!」
「あ…」
 言葉を残して飛び出した光流の背中を虹は何か言いたげに見つめた。
 光流は、みるみる小さくなっていく。

 あたし、またなにもしないの?
 あたし、まだなにも言ってないよ
 あたし…あたしは………

 虹は握っていたバンダナをポケットに入れると、きっ、と巨人のいる方角を見据えた。
 そして走り始める。

 逃げるもんか。

 そう心で呟きながら。


−続く−





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「−まほろば− なんてステキなありふれた日々」第壱話エピローグ
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