「〜まほろば〜 なんてステキなありふれた日々」 第弐話「ひとかけら」

2000.1.12(水) 藤原眠兎

 

 


なんてステキなありふれた日々

第弐話 ひとかけら

 

 闇の中、それは目覚めた。
 ただ、破壊をもたらすためだけに。
 そう、目覚めたのは、そのためだけのはずだったのだ。
 事故さえおこならければ。

 

−序−

 やわらかな潮風。
 まるで母なる大地の心音のように、一定のリズムで寄せては返す波。
 ふと見上げれば空の青と大きな入道雲の白とが、美しいコンストラクトを描いてい
た。
 ここ、セカンドムーンは海辺で気候が穏やかであるという事もあって、一大リゾー
ト地としても知られている。
 数年前に悲劇的な天災が起こったが、バイタリティあふれるこの街の人々は1〜2
年もしないうちに復興を成し遂げた。これは"セカンドムーンの奇跡"として経済史上
では語られている。
 そんな過去の事はともかく、セブンスムーンでは夏ももうじき終わるというのに、
ここではまだまだ夏は続くらしい。
 いっこうに衰える事を知らぬ真夏の強い日差しの中、5人の少年少女が海への街道
を歩いていく。
「いやぁ、眠兎さんが言うような異常はなさそうですねぇ?」
 その様子を遠くに見ながら青いバンダナで髪をまとめたサングラスのダンディがの
んびりとした口調で呟いた。
「気のせいならいいんですがね。何しろここは…」
「…かつて全てが消えた場所」
 茶色の髪の青年の言葉を、その傍らにいる麦藁帽子をかぶった長い黒髪の少女が引
き継ぐ。
「でも、ほら、何も無いならそれに越した事は無いでしょ?せっかくこんな場所に来
たんだからのんびりすごしましょう♪」
 わりと長く黒い髪を後ろでまとめた青年がお気楽そうに言った。
 茶色の髪の青年はしばらく考え…
「ま、そうですね。それになんかあった場合は…子供達に任せますか」
 茶色の髪の青年の言葉に少女がこくりと頷く。
「そうそう、俺達はのんびりとナンパでもして過ごしましょう♪」
 長髪の青年の言葉に茶髪の青年は軽くため息をついた。
 変わらない。
 何年たっても。
 いいんだかわるいんだか。
「それにしてもなんというか…いい感じですね♪」
 長髪の青年はだいぶ小さくなった少年少女の集団に視線をやりながら嬉しそうに
言った。
「いい感じって…何がです?」
 小首を傾げながら青バンダナのダンディ。
「ほら、虹ちゃんも美影ちゃんもすっかりお年頃って感じじゃないですか。なんとい
うかこう…本格的にナンパしてみたくなるような…はっ!?」
 ぞくりとするような殺気。
 この場の気温がまるで極北の山中であるかのように下がっていく。
「クレインさぁん?」
 ぽむ、と茶髪の青年が左肩に手を置く。
「虹に手を出したら…」
「美影に手を出したら…」
 続いてどむっ、とやや力強く青バンダナのダンディが右肩に手を置く。
「「死なすよ?」」
 声をそろえて、同じ様ににこやかな表情で茶髪の青年と青バンダナのダンディはク
レインに宣言した。
 表情はにこやかだが、目はマジだ。
「は、ははは、やだなぁ、冗談ですよ?いやほんとに。ほら、まだ対象外といいますか…」
「ほほう?」
「うちの虹には魅力が無いと?」
 泥沼。
 そんな単語がクレインの脳裏をかすめる。
「…親バカばっかり。」
 麦藁帽子の少女が肩をすくめながら、あきれたように呟く。
 さしあたって親バカとその被害者は置いといて、麦藁帽子の少女はもう見えなく
なった少年少女の集団の方を見た。
「…大丈夫、がんばれ」
 にこりと微笑を浮かべてそっと呟いた。
 少女の応援の意味は誰にもわからない。
 その時が来るまで。

 

−1− 

 皆に等しく降り注ぐ激しく強い陽光の下、僕はといえばビーチパラソルの下という
安全地帯の下で読みかけの小説をアイマスクの代わりにかぶり、のんびりとまどろん
でいた。
 春から夏にかけて、僕の身の回りで大きく変わった事はいくつかあった。
 たとえば、光流くんと虹ちゃんが正式に付き合い始めた事なんかそうだ。
 別に組み合わせ自体は意外でもなんでもなかったけど、そういった事にいまいちう
とい二人の事だから、もっと先の話かと思ってた。
 そういう意味ではちょっと意外ではあった。
 それとは対照的に僕は美影ちゃんにふられた。
 自信はあったんだけど、そうなっちゃったものは仕方が無い。
 だからといって何が変わるわけでもない。
 僕らは今まで通り何ら変わらない付き合い方をしている。
 ただ、今でも思う。
 僕の何がいけなかったのか、何が気に入らないのか、と。
 彼女にそれを聞いても「…相性の問題かな。」としか答えない。
 相性ってなんだ?
 光流くんと虹ちゃん、彼女と僕とで仲良くやってきた。
 相性、悪いはず無いじゃないか。
 …ああ、やだやだ、女々しいな僕は。
 仕方が無いと思いつつも、いまだに引きずっている。
 ………僕の生い立ちの事のように。
「ね、ね、起きてる?」
 不意に耳の傍でアルトの澄んだ声が聞こえた。
 きれいな声。
「…やっぱ寝てんのかな?」
「起きてるよ」
 そう答えながら僕は顔の上に乗っかっていた小説をどけて上半身を起こした。
 瞬間、常夏の街のまぶしい陽光に僕の目を射抜かれ、一瞬めまいのようなものを感
じる。
 目を慣らすために、ぱちぱちとまばたきしていると先程の綺麗な声の持ち主がくす
くすと忍び笑いを漏らしていた。
「何がおかしいんだい?えーと、カリンさん?」
「んー"カリン"でいいよ、京介さん」
 ようやく周りの光の強さになれた目をそちらに向けると、赤色のわりとおとなしめ
の水着に同系色のロングのパレオを巻いたショートカットのボーイッシュな女の子…
カリンが口元を押さえてまだ笑っている。
 この娘は光流くんや虹ちゃんと同級生で、なんというか…元気があって大変よろし
いとはんこをあげたくなるような娘だ。
「で、なんの用かな、カリン?」
 こほん、とせき払いを一つしてから僕は尋ねた。
 あんまり笑われるのは好きじゃない。
「んー、いや、ボク暇でさぁ…もし京介さんも暇なら一緒に暇つぶさない?」
 少し恥ずかしそうにカリンは言った。
 よくある事だ。
 僕は(自慢のつもりは無いけど)顔貌が整っている。
 平たく言えばハンサムって事になる。
 学校でも、極端な時には街角でもこんな風に誘われる事や、告白されたりラブレ
ターをもらう事はよくあった。
 もちろん何時でも丁重にお断りしてきた。
 僕はクレイン兄さんみたいにはなれない。
 でも、今は…
「別に…構わないけど…」 
「おっけー!じゃあ、ほら、こんな場所で寝そべってないで、ボクについておいで
よ。いい場所見っけたんだから」
 嬉しそうに笑いながらカリンが僕の腕を力強く引っ張る。
 そんなに慌てなくたって逃げやしないよ。
「やれやれ」
 言いながら僕は立ちあがると、傍らにおいてあったSFmk2を拾い上げた。
「ほらほら、早く早く!」
 カリンがそんな僕をせかした。
 ため息一つついて見上げた空にはまぶしい太陽。
 まるで手を伸ばせば届きそうな入道雲に透き通るような青い空。
 ありふれた夏のありふれた出会い。
 クレイン兄さんあたりなら"チャンスだろ?"とでも言うだろうか?
 僕は無意識にもう一度ため息をついていた。

 

−2−

 眼下に広がる一面のコバルトブルー。
 透けて見える白い珊瑚礁。
 この風景は"僕"の短い歴史の中で、間違い無く一番美しいと言える景色だった。
 確かに"いい場所"と言える。
「ね?綺麗でしょ」
 どこか誇らしげに言うカリン。
「確かにね。」
 あくまでクールに、僕。
「なんだよもう、張り合い無いなぁ…感動して涙流すぐらいしてくんないの?」
「無茶いうなよ…確かに綺麗だけど、さ。あんまこういう事で感動しないんだ。」
 僕はため息混じりに答えた。
 いつからだろう、あまり感動しなくなったのは。
 物心ついたときから、あまりわかりやすく感動した覚えはない。
「ふうん?もったいないの。ね、ね、じゃあさ、どんな事で感動するの?」
 無邪気に笑うカリン。
 純粋に興味本位の言葉。
「さあね。」
 またもクールに答える。
 でもこれはクールなふりだ。
 本当は答えられない。
 ただそれだけ。
「さあねって…つまんない人生送ってるってるんだねぇ…」
 しみじみとカリンは言った。
 なんだか自分が惨めな存在みたい言われようだな。
 感動なんか無くたって人間は生きていける。
「じゃあ、君は?」
「ボク?ボクは…そうだね…感動する事が多すぎて困っちゃうぐらいかな?朝起きた
時に寝癖がついてるのだって、美影が寝ぼけてるのだって空が青いのだって海が青い
のだって星が瞬くのだって太陽がまぶしいのだって、どんな事にでも感動は有ると思
うな。」
 実に楽しげに歌うようにカリンは言った。
 そんなに感動してたら、感動する事にあきないんだろうか?
 僕なら飽きる。
「ふうん、なるほどね。君はいつでも元気な訳だ。」
「皮肉?」
 僕の顔を覗き込むようにして、カリン。
 僕は肩をすくめる。
「いや…純粋な感想さ」
 僕には無い考え方だ。
 僕に無いもの。
 ふむ。
 僕には無いものだらけだ。
 光流くんや眠兎さんのような特別な力。
 虹ちゃんのような素直さ。 
 美影ちゃんのような"強さ"。
 それに、カリンのような感動する心も付け加えよう。
 …自分がダメ人間に思えてくる。
 でも、別にとりえが無いわけじゃない。
 表見が整っている事と、頭の回転が人よりも早い事。
 ただ、それだけ。
 それじゃあダメなんだ。
 繰り返しになってしまう。
「…またその顔」
 ポツリとカリンが呟いた。
 また?
 またってなんだ?
「京介さんって時々今みたいな顔するよね。なんていうか…この世の不幸を一身に背
負ったような顔。」
「…気のせいだよ。僕は、そんな顔、しない。不幸なんか、背負ってない。もう一度
言う。君の気のせいだ、カリン。」
 そうだ、不幸なんかじゃない。
 やや語気を荒くして僕はカリンの言葉に応えた。
 カリンはというと目を丸くして僕のことを見ている。
「…へぇ」
 そして感心したような呟き。
「なんだよ?」
 必然的に不機嫌そうな口調になる。
 にぱっとカリンが笑う。
 何だ?
 何がおかしいんだ?
「そんな不機嫌そうな顔は初めて見たよ」
 カリンがさらっと言った。 
 …確かに。
 僕らしくもない。
 なんだか変な感じだ。
 この娘の前では…なんというか…ペースが崩れる。
「僕だって人間だからね、機嫌が良い時も悪い時もあるさ。」
 我ながら子供じみた言葉。
 格好悪い。
「んー…そだね、うん、確かに。」
 その子供じみた言葉にカリンは妙に納得したように頷いた。
 そしてやっぱり笑顔を浮かべた。
「うん、でも安心した。京介さんもやっぱ人間なんだねぇ…」
「何だそれ?当たり前だろ?」
 多少憮然とした口調で僕は返した。
「そう?だって、ずっと無表情で寡黙で、それでいて顔はまるでサーガに出てくる
ヒーローみたいな美形さんでしょ?なんかゴーレムみたいでさ…」
 神妙な顔つきでカリンは語った。
「…喜んでいいんだか悲しんでいいんだか。だけどとりあえずゴーレムから人間にっ
てのは出世したのかな?」 
 僕は苦笑混じりに答えた。
 ゴーレムってのはあんまりだけど、確かに僕は感情をあんまり表に出さない。
「うん、大出世!」
 やっぱり笑顔。
 なんとなくつられて僕も笑顔を浮かべた。
 カリンの語り口は子供っぽい、と言えなくもないけど、変に飾った言葉よりは気分
が良かった。
 そういえば、こんな会話らしい会話をしたのはずいぶんと久しぶりな気がする。
 毎朝、光流と戦闘訓練はしてるし、虹ちゃんや美影ちゃんと軽い会話はする。クレ
イン兄さんにも挨拶はするし、じゅらい亭にも顔は出す。でも、”会話”はしていな
かったような気がする。
 僕はどこか人との交わりを避ける傾向にある。
 それは、僕が僕である前の過去に起因するものだが…
「また!せっかく笑ったのにすぐに眉間に皺よせてさ、何だって京介さんはその顔す
んのかなぁ…」
 いきなりカリンが怒ったような口調で僕に言う。
 その顔?
 ああ、不幸そうな顔ってやつか。
「生まれつきなんだよ、きっと。」
 我ながら投げやりな言葉。
 不幸なはずない。
 一度間違った人生をもう一度やり直させてもらっているんだ。
 ただ、僕にはそれに報いる手段がない。
 その事実が僕を苛立たせる。 
「だったら…ちょっともったいないね」
 そう言ってカリンは少し力無く笑った。
 何故だか少しだけ…寂しそうな感じ。
 ほんとに忙しい子だな。
 怒ったり、笑ったり、寂しそうになったり。
 もっと自分を押さえればいいのに。
「…喉乾いちゃった。何か飲み物…」
「いや、もう、戻ろう。ありがとう、いい場所教えてくれて。」
 そう言って僕は頑張って笑顔を浮かべてみる。
「んー、そう言ってくれると嬉しいな、うん。…じゃ、もどろ!」
 努力を評価してくれたのか、カリンは僕と同じ様に笑顔で答えた。
 わざわざリゾート地の海岸でする必要の無いようなありふれた会話。
 クレイン兄さん好みのロマンスや色気のある展開じゃあないけど、こういうのも悪
くはないさ。
 たまにはね。
 元気よく歩く、あまり色気のないカリンの後ろ姿を見ながら、僕はそんなことを
思った。

 

−3−

 光の射さぬ闇の中。
 それはただ、そこにいた。
 海という名の母に抱かれ、ただ、そこにいた。
 己が内に災厄を封じ込めるパンドラの箱のように、災厄とも呼べる”モノ”を我が
物とせんと己の身体に取り込み、そこにいた。
 闇の中、暗く、蒼い光が二つともる。
 それに応えるように赤い大きな光が二つともる。

「己が器を超えし力を求める愚か者よ…」
 はるか海の底で、発する事のできぬはずの声が響いた。
 再び応えるように赤い瞳が暗く鈍く光る。
「力が欲しいか?」
 
 おおおおおおおおぉぉぉ…

 ゴボゴボと、何か濁った液体を吐き出しながら、それは応える。
「そうか」
 侮蔑のこもった愉快そうな声。
「ならば受取るがいい。己が身体を御するだけの力を。」 

 うをををををうおぉぉぉおぉおん

 闇の中、歓喜の思念が満ち溢れる。
 ゆっくりゆっくりと、その巨大な身体が浮上しはじめた。
 巨大な赤い瞳が怪しく光る。

 うををををおおおうんん

 うなり声とともに吸盤を備えた巨大な触手が青い瞳のモノに殺到した。
 触手が獲物を捕らえたと確信した瞬間。
 青い瞳の光が消えた。

「それもいいだろう」
 再び声だけが響く。

 うおおおうううんん

 うなり声と共に探るように四方八方へ触手が伸びる。
 だが、触手は何も探り当てる事はなかった。

 ギッ!!

 不快なガラスを引っかくような音が響く。

 ぎおおおおおおぉぉぉぉおうううううっ!!

 そう言ってよいというのなら、悲鳴が当たりに響き渡った。
 グニャグニャとした軟体の巨大な身体をのた打ち回る。
 触手が、身体が岩場にぶち当たり、あたりを破壊した。
 よく見るとたくさんある触手のうちの半分ほどは、まるで鋭利な刃物で切断したか
のように切り取られていた。

「己が分を知ったか、愚か者。」
 冷ややかな、侮蔑の言葉。

 おおおおぉぉぉぉん…

 うなり声をあげながら、まるで逃げるように触手を持つモノは上へと浮上してゆ
く。
 その心に満ちるものは怒りと、破壊衝動と、そして恐れだった。

「それでいい。」
 再び声だけが海底に響いた。
「死と、破壊を撒き散らすがいい。」
 そして再び闇。

 

 


 

 

 いつだって光は見えている。
 だけど、それに僕の手が届く事はない。
 いつだって僕の手は光には届かない。
 何故だろう。
 これは報いなのだろうか?
 かつて復讐に生き、復讐に死んだ僕への。 

 

−4−

 夕方。
 昼でも夜でもない狭間の時間。
 寄せては戻す海の呼吸が沈みゆく夕日に照らされ赤く染まる。
 そのあまりの雄大さに僕は何もかも忘れ、しばし海岸でたたずんだ。
 こうして圧倒的な自然の産物を見ていると、自分という存在の悩みなどまるでちっぽけ
なもののように感じる。
 …つまらない感傷だ。
 この一大パノラマの前に僕の悩みなどはちっぽけなものかもしれないが、僕にとっては
依然として大きな問題なのだから。
 僕はため息をつくと、夕食の材料を再び手にして歩きはじめた。
 ロマンチストになろうとする自分が嫌だったし、そう考えてしまうリアリストな自分も
嫌だった。
 つまるところ僕は自分が嫌いなのだ。
 外面のいい自分が、内面でグチグチと悩む弱い自分が、たまらなく嫌だった。
 強くなりたい。
 身体も、心も。
 いつだってそう思う。
 ふと、空いた左手で腰のホルスターにあるスターファイアmk2の感触を確かめる。
 冷たい金属質の手触り。
 神を召喚し、その力を使役するシステム。
 その気になれば、一つの世界を征服する事すら可能な代物だ。
 今のところ、こいつを扱う事ができるのは僕とクレイン兄さんだけだ。
 僕はある意味選ばれた存在なのかもしれない。
 だけど、これは僕の力じゃあない。
 クレイン兄さんが譲ってくれたものだ。
 かつての宿敵であった僕に。
 僕はクレイン兄さんのようには生きられない。
 敵を許す事なんて、きっと出来ない。
 正義の味方にはなれない。
 かといって悪事を働くほどの度胸もない。
 じゃあ、僕は?
 上等すぎる玩具を与えられた子供はどうすればいい?
 僕はいつものようにため息をついて歩きはじめた。
 ここで悩んでいても今までと同じ様に答えは出ないだろうし、皆をあまり待たせるわけ
にはいかない。
 僕はもう一度ため息をついた。
 僕はどうしたいんだろう?
 僕はどうして欲しいんだろう?
 わからない。
 たったそれだけの事でさえも。
 余計な事はわかるくせに。
 肝心な事はわからない。
 もう一度ため息。
 気付けばもう日は沈んでいた。

 

−5−

 パチパチと火のはぜる音。
 その火にあぶられて串でまとめられた肉と野菜がジュウジュウと焼ける。
 俗にいうバーベキューというやつである。
 セブンスムーンからの来訪者達(保護者含む)は焚き火と網を囲んで楽しい一時を過ご
していた。
「とうっ!!いただきっ!!」
 掛け声とともに光流が電光石火の速さで手を伸ばす。
「む、元代表キーパー(?)の意地にかけてさせませぇーん!!」
 がしっ!!とその手をゲンキが掴む。
 じりじり。
 奇妙な緊張感。
 たかだかバーベキューでそこまで真剣にならんでも。
「がんばれー、光流くん!!」
 虹が楽しげに応援する。
 こんなことで応援なんてしなくても…と自分でも思わなくもないが、そこはほら、どん
なくだらない事でも真剣にやる光流くんが大好きだし。
 それはそれで、とほほ…虹はおいちゃんの事を応援してくれないんだねぇ、等とゲンキ
をけっこうがっかりさせたりする。
 こうなると、ゲンキの方も多少(いや、かなり)意地になってみたりして、何だか今食
べごろのこの串が虹のように思えてきて、この義父(?)を越えてみせろ!!さもなくば
虹はやらん!!、等と勝手な事を考えつつ厳しいディフェンス。
「ちぃいいいいいっ!!」
 フェイントを織り交ぜ、美味しそうな串へとジャッと奇妙な効果音と共に光流は手を伸
ばす。
 にいっ、と口元に歪めるような笑みを浮かべ、ゲンキはその全てを受け止める。
 固唾を飲んで見守る虹。
 等と「修羅の門(講談社)」な展開を見せる三人をよそに。
 ひょい。
「いらないならボクが食べるよ♪」
 カリンが嬉しそうに言って串にかぶりついた。
「ああっ!?」
「No!?」
 ほぼ同時に悲鳴を上げる光流とゲンキ。
 そんな大袈裟な。
「…ばか?」
 新しい串を追加しにきた美影がつぶやく。
 その串をまめに動かしながら眠兎は微笑んだ。
「はっはっはっはっはっはっは」
 というよりむしろ大笑いした。
 片手にはビールのなみなみとつがれた紙コップ。
 きゅーっ。
 ごくごく。
 ぷはーっ。
「はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは」
 酔っ払いである。完膚なきまでに。
 その様子を見てみのりはちょっとだけため息をついた。
「…眠兎くん、あまり強くないんだからほどほどにしないと…」
 たとえ子供たちよりも年下の様な外見であろうとも、しっかりとしたいい奥さんであ
る。そう、この集団の中では一番背も低くて、一番幼く見えても双子の母親なのだ。
「なんだって!?ぼかぁまだまだ現役ですとも!!」
 何かを勘違いして眠兎が答えた。同じく双子の父親のはずなのにその風格はどこへや
ら。
「ほう、現役ともうしますと?」
 ゲンキはぎゅうぎゅうと光流を片手で押さえつけながら、尋ねる。
 口元にはどこか、にやけた笑い。
 追記:ゲンキももちろん酔っ払っている。
「そりゃあもちろんよるっ!?」
 ガツン。
 じゅう。
「………。」
 みのりはバーベキューの土台になっている大きな石のうちの一つを、情け容赦無く眠兎
の頭に叩き付けたのだ。
 注:普通は死にます。
 その場にいた全員に戦慄が走った。
 歳を重ねても変わらぬ厳しいツッコミっぷりにゲンキは感動すら覚えた。
 っていうか僕にはつっこまないでくださいね。
 それがゲンキの正直な感想だった。
「…お酒は程々にね、眠兎くん」
「い、イエス、マム」
 頭の傷と火傷を魔法で治しながらささやかれたみのりの言葉に眠兎は軍隊式に返事をし
た。
「とう!いただきだぜ!」
 一瞬の空白をついて光流が串に手を伸ばした。
「む、元代表キーパー(?)の意地にかけてさせませぇーん!!」
 がっしーん、とゲンキがその手を受け止めた。
 そして振り出しに戻る。

 

−6−

 賑やかな喧騒を避けるように、京介は串を一本だけ持って波打ち際を眺めていた。
 星明かりと月明かり、そして背後のバーベキューの炎が辺りを暖かく照らしている。
 いつからだろう、こういう雰囲気が苦手だと感じるようになったのは。
 ぴとり、と頬に冷たいものが当てられる。
 振り向けばクレインが缶ビールを2つ持って、立っていた。
「ほら、飲めよ」
 そう言ってクレインは京介に缶ビールを放ってよこした。
 京介は左手で器用にぱしっと受け止めて、そしてクレインに放り返した。
「まだ子供ですからね」
 そう言いながらまるで野球のバッターのように、既に食べおわったバーベキュー用の串
を構えてくるりと回す。
 クレインは苦笑を浮かべてから、もう一度ビールを京介に放り投げた。
「俺がお前ぐらいの歳の頃には合コンやら何やらで、もうビールぐらい飲んでたよ」
 プシュッと缶をあけながらクレインが言葉を返す。
 そしてそのまま京介の横に腰を下ろした。
「昔の自分の事を引き合いに出すのは老化現象の始まりですよ?」
 同じく缶を開けながら京介は言った。
 プシュッと音を立てて封じ込められていたガスが抜ける。
 缶の中には苦い味のアルコール。
「何を言う、俺はまだまだ若いよ?」
「確かにね。」
 皮肉でもなんでも無く京介は答えた。
 心が老化してるよりは若いままの方がいい。
「………。」
「………。」
 なんとなく気まずいような感じで言葉もなく二人はただビールを胃に流し込む。
 ぺきぺきっ。
 呑み終えたビールの缶をクレインが握り潰した。
「なぁ、京介。」
「なんだい、クレイン兄さん?」
 夜の海を眺めたままで京介は答えた。
 その視線の先にはいったい何が映っているのか。
「…何とかなるもんさ、どんなことでも、な」
「え?」
 不意に発せられた妙な発言に、京介が怪訝そうな目を向ける。
 ばつが悪そうにクレインは頭を掻きながら、不器用に笑った。
「どんなことでも、たいてい何とかなるもんさ。俺の元いた世界にこんな歌の一節があっ
たんだ。『どうにもならないような事はどうでもいい事さ』ってね。それぐらい適当に構
えてた方が、物事ってのはうまくいくもんなのさ」
「………。」
 クレイン兄さんらしいな。
 京介は素直にそう思った。
 否定するわけじゃあない。
 僕に何かアドバイスしようとしてくれる気持ちもありがたいと思う。
 要はあんまり深く悩むなよ、といったところだろうか。
 だけど。
「女性関係は適当じゃあない方がいいと思うな、クレイン兄さん」
「…お前、そういう返し方するか、普通?」
 クレインが再び苦笑を浮かべる。
 やっぱりうまくは言えないもんだな。
 京介もきっとわかってはいるんだろう。
 だけど、きっとどうしていいかわからないのではないのだろうか。
 自分の道は自分で探さなくてはならない。
 せめて指針でも、と思うのだが。
「ま、あんま思いつめるなよ。」
 クレインはそう言うとふらふらと火の方へと戻っていった。
 京介は我知らず深いため息をついた。
 僕は僕にしかなれない。誰も僕にはなれない。
 だとしたら僕は何をすればいいんだろう?
 僕は、失敗は出来ない。
 既に取り返しのつかないほど大きい失敗をしているのだから。
 僕がこの場にいるのは恐ろしいまでの僥倖にすぎない。
 だけど僕はここにいる。
 何をすればいい?
 どうすれば過去をつぐなえる?
 僕はいったい何をすればいい?
 すぐ近くで賑やかにしている声や音がひどく遠くに聞こえるような気がした。

 

−7−

 眠れなかった。
 気が高ぶっているのか、布団に入っても全然眠くならなかった。
「まいったな…」
 京介はそう呟いて身体を起こした。
 窓から外を見れば満天の夜空が辺りを柔らかく照らしている。
 月明かりの下で散歩も悪くはない、か。
 全然眠れぬベッドに別れを告げて、僕はふらふらと表に出ていった。
 ホテルの外に出れば、南国特有の甘い空気と、思ったよりも明るい月の光が僕をやさし
く出迎えてくれた。
 何の指針もなかったが、僕は足のむくまま気のむくままに歩きはじめる。
 何となく来てみた海岸では、よせては返す波のリズムがひどく心地よかった。
「ふぅ…」
 ため息をついて僕は砂浜に腰を下ろした。
 深い青色の海に星が映り込んでとても美しく見える。
「…la-lalulali-la-…」
 不意に波の音に混じって驚くほど奇麗な歌声が聞こえた。
 もしも、本当に船乗り達を迷わせる人魚がいたとしたら、こんな歌を歌うのだろう。
 でも、いったい誰が?
 僕はまるで歌声に誘われるように声のする方へと歩いていった。
「…la-lalulali-la-…」
 不思議な歌声だった。
 聞いているだけで心が軽くなるような、そんな歌声。
 歌声を追って歩いているうちに、ふと僕は気付いた。
「この道は…」
 こっちだよ、とカリンが案内した道だった。
 彼女だけが知っていると豪語していた場所。
「…la-lailali-la-…」
 歌声は聞こえてくる。
 その場所の方から。
 見れば、黒のタンクトップに白いショートパンツといういでたちのショートカットの少
女がそこにいた。
 カリンだ。
「…だれ?」
 不意にカリンの歌声は止まって、代わりに疑問の声。
「ぼくだよ」
 止まってしまった歌声をひどくもったいなく思いながら、僕は答えた。
 すると、カリンは照れ笑いを浮かべる。
「ああ、京介さん…ひょっとして聞いてた?」
「うん、ひょっとしなくても」
 そう答えると僕はカリンの隣に腰を下ろした。
 カリンはといえば恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべている。
「…なんか眠れなくてさ、呪歌の練習してたんだ…」
 そう言う彼女の横顔はどこか神秘的な月の明かりも手伝って、ひどく大人びて、儚げに
見えた。
 ちょっとだけ、胸が高まった。
「呪歌…なるほどね」
 そんな自分の心の動きを踏み潰すように、僕はあえて呟いた。
 呪歌とは旋律と歌詞ー言葉ーにある一定の魔力を加え、さまざまな現象を起こす魔術
だ。あまり魔法の理論に詳しくない者でも歌さえ歌えれば使う事ができるが、そのかわり
正確な発音と音感を必要とする。
 つまり魔法と同じで”選ばれた”者しか使いこなす事は出来ない。
 選ばれたもの、か。
「これぐらいかなぁ、美影に勝てるのって」
 そう言いながらカリンは後ろに伸びをしながらパタンと上半身を仰向けに倒した。
 ひどく無防備な格好。
 これは僕は信用されていると見ればいいんだろうか?
 それとも対象外って事か。
「友達なんだろう?勝つとか負けるとかそういうもんじゃないんじゃないか?」
 一応僕は言葉を選びながらそっと言った。
「んー、それはやっぱ奇麗事だよ。うらやましいものはうらやましいし、勝ち負けってあ
ると思うな、やっぱり。」
 カリンは苦笑いを浮かべながら答えた。
 確かに。
 僕もそう思うことは正直に答えればある。
 僕の場合は光流くんがそれにあたるかな。
 でも、劣等感を劣等感と認めるのは難しい。
 僕は、そうは認めたくはないし、認めたとしても決して口には出さないだろう。
「あきれちゃった?」
「ん…いや、そんな事はないよ。僕にもそういうところは…無いとは言わないし。」
 口をついて出た言葉に何より僕自身がおどろいた。
 月明かりのせいなのか、カリンの無防備な素直さのせいなのか。
 思わず僕もバカ正直に言ってしまった。
「へぇ…意外だなぁ…いつでも自信たっぷりに見えるのに」
 今度は僕が苦笑を浮かべる番だった。
「こう見えてもね、コンプレックスを感じる事は多いんだ」
「へぇ、安心しちゃった。京介さんも普通の人なんだね」
 身体を急にひょいっと起こして、カリンは僕の顔を覗き込むようにしてにこりと笑っ
た。
 僕はといえばそのカリンの仕種にひどくドキドキさせられて、まるで逃げるように目を
逸らした。
「なんか…昼間にもその言葉聞いたような気がするな…」
「あはは、そうだね…」
 カリンは軽く笑うと、はるか遠くの海面に映る月に視線を向けた。
 眩しいものを見るような視線。
 さほど眩しくもない海面の月にいったい何を見ているのか。
 なんとなしに僕もそちらに視線を向けた。
 一面の青の中で輝くやさしい月の光は、どこか美影ちゃんを思わせた。
 冷たく見えて、本当は誰よりもやさしい彼女。
 僕がつらいと思った時は、必ず助けてくれた。
 いつでも、どこでも。
 まるで、いるはずの無い僕の母親のように。
 今はもう手の届かない、僕の月。
「…美影ってさ」
「え?」
 ぽつり、ともれたカリンの言葉に僕は少し驚きながらカリンの横顔を見た。
 自分の考えている事が見透かされたのか、さもなければ彼女も僕と同じ様な事を考えて
いたのだろうか?
「やさしくて、美人で、スタイル良くって、あんまりそうは見えないけど本当は性格も良
くって、せいぜい欠点て言えば夜型人間って事ぐらいで…」
 確かに。
 僕もそう思う。
「でも、いつも思うんだ。美影って誰かを助けてばかりいるけど、誰かに助けてもらって
いるのかなって。ボクは…不完全な人間だから、助けられてばかりだけど。」
「…自分を不完全だなんていうべきじゃあないな。確かに美影ちゃんは完璧に近い人間だ
と思うけど。」
 美影ちゃんが誰かの助けを必要にしているかどうかは疑問だけど、それよりも後半の言
葉の方が気になった。
 不完全?
 僕なんかよりもよほど人間らしいカリンが?
 冗談じゃない。
「…あはは…ありがと。でもね、ボクはやっぱり人間としては不完全なんだよ。ボクに
は”過去”がないんだ。生まれてから、ボクが覚えているところまでの記憶がごっそりと
抜け落ちているんだ。」
 淡々と語る彼女の横顔は、ひどく寂しげだった。
 僕は僕で、彼女の発言にひどくショックを受けていた。
 皮肉な事に、今、話を聞いている僕は彼女と正反対の人間だった。
 もう一つの過去を持ち、その過去に縛られている、僕。
 過去がないがゆえに人間として不完全だという彼女。
 いったいどちらが人間として完全に近いというのだろうか?
「ボクの記憶はね、ちょうど1年前のここから始まっているんだ。この景色がボクの始ま
り。」
「そうなんだ…」
 僕がいったい彼女に何を言えるというのだろうか?
 過去について悩む僕が、過去が無いという彼女にいったい何を?
「あ、やだなぁ、そんな顔しないでよ。別にボク、自分が不幸だとは思っていないから
さ」
 そう言って、彼女はまた笑った。
 無理をしているのか、本当にそうなのか、それは僕には分からない。
 ただ、その笑顔が僕にはひどく眩しく感じた。
「どうして?つらいんじゃないのかい?」
「んー、確かに自分が何者かって不安になる事はあるよ。でも、気にしたってわからない
ものはわからないし、それに…」
 言葉をいったん切って、カリンは軽くウインクをしてから続けた。
「ボクは”現在”を生きているんだしね。”過去”が無くたって生きていけるし、”未
来”はこれから作るものなんだし。そういう意味では、過去が無い分、現在を思いっきり
楽しみたいと思ってるよ。」
 まるで頭を鈍器で殴られたような衝撃を僕は心に感じた。
 僕とはまるで正反対だ。
 楽しむ、なんて発想が僕にはあっただろうか?
「………カリンは、強いな」
 僕の口から、ようやくその言葉だけがもれた。
「そうかな?普通だよ」
 あっさりと答えてカリンはお尻を軽く払いながら立ち上がる。
 月明かりを背に笑顔で僕を見ているカリンは、とても魅力的だった。
「ね、もう、いこうよ」
 そう言って差し伸べられた彼女の手を、僕はなぜだかひどくドキドキしながら握った。
 僕はまだ美影ちゃんの事が好きだ。
 でも、いまここにいるカリンも、とても魅力的だと思った。
 クレイン兄さんの事、笑えないな。
 僕はそんな事を考えながらカリンの手を握ったまま立ち上がった。
「じゃあ、帰ろうか、渚の歌姫様」
「あはは、なにそれ」
 僕の半ば本気の言葉にカリンが声を出して笑った。
 僕もつられてほんの少しだけ笑った。
 

 そしてこの時、僕はまだ気付いていなかった。
 僕がしでかしていた最大のミスに。

 

−8−

 はるか上にはゆらゆらと月が映っていた。
 少なくともそれは月と認識していた。
 海の底に居たそれが見た事も無いハズの”月”を”月”と理解していた。
 それの青白い巨体が青く美しい海の中を陸に向かって突き進んでいた。
 熱帯に住む色とりどりの美しい魚や、さまざまな海中に住む生き物達が慌てて逃げ出し
ていく。
 逃げられぬ美しい珊瑚礁と、逃げ遅れた海棲生物達は消えていった。
 食らったのか、本当に消えたのか。
 いずれにせよ、それの通った後には海水以外、何一つ残らなかった。
 そう、何一つ。
 それが身の内に取り込んだモノが莫大な力と知識を与えている。
 今までは取り込んだモノのあまりの力の強さにそれは押え込むのがせいぜいだったが、
新たな力を”闇”から得たため、とうとう海の底から這い出す事に成功したのだ。
 それの”心”の中は怒りと恐怖心と破壊の衝動とがせめぎあっていた。
 力を、もっと力を。
 飢えと渇きがさらにそれをうながす。
 自分を傷つけた”闇”を破壊し、食らい、取り込むために、さらに力が必要だった。
 ”闇”を取り込めば…さらに破壊をもたらす事ができる。
 理屈ではなく、それは本能で破壊を求めていたのだ。 そしてそれは感じ取った。
 たぐいまれな大きさの力の存在を。
 まるでそうするのが当然のように、それはそちらへと方向を変え、海中を破壊しながら
移動していった。
 飢えと渇きと、欲求を満たすために。

 

 


 

 

 僕ははたして何のために今生きているのだろうか。
 "生きるために生きている"
 きっとカリンならそう答えるだろう。
 過去の自分、今の自分。
 僕は違わなければならない。
 同じ失敗を決して繰り返してはならない。
 そう、決して僕は失敗してはいけないんだ。
 それが"生かされた"、僕の生き方。
 間違いは許されない。
 既に間違えたのだから。
 過去を無くした事により"今"を大切に生きるカリン。
 過去があるがゆえに"今"を恐れる僕。
 僕は、間違えているのだろうか?
 だとしたら問いの答えは?
 僕はどう生きればいい?
 誰か、僕に、教えてくれ。

 

−9−

 始まりは唐突だった。
 びしっびしっっ。
 僕とカリンの足元に亀裂が走った。
 比喩表現ではない。
 文字通り、足元に亀裂が走ったのだ。
「なにこれ?」
 カリンが疑問の声を漏らして後ろを振り向いた。
 そしてそのまま息を呑みこんだ。
「どうし…」
 僕も同じだった。
 振り向いた僕らの視線の先には先程まで僕らがいた高台があった。
 そしてそこには先程まで無かったオブジェが存在していた。
 のたうつ巨大な触手。
 その触手が何かを捜し求めるようにのたうつ度に、地面に亀裂が走った。
 触手だけで十数メートルはある。この先の本体のサイズは如何ばかりのものなのだろうか。
 想像するだけでも恐ろしい。
 僕は半ば無意識のうちにスターファイアmk2に手を伸ばした。
「…なんてこった…」
 あろう事か、ホルスターごと、スターファイアmk2は無かった。
 落とすはずはない。
 持ってきていなかったのだ、最初から。
 何もあるはずはない、と心に油断があったのかもしれない。
 落ち着け、僕。
 今、必要なのは原因じゃあない。どう、対処するか、だ。
「あ…あ…」
 カリンが口を押さえてうめき声を上げた。
 ずるり、と幾つもの触手が動き、ぴんと張り詰める。
 ずりずりいっ、と触手の本体が現れた。
 それは、そう、強いていうなら巨大なイカだった。
 ただし、全長はおよそ30m以上はある、だ。 
 大王イカという種類のイカがいる、と聞いた事がある。
 だが、これはそんなものじゃあなかった。
 根本的にモノが違う。
 月に照らされ、まがまがしくも青白く光る巨体。
 その赤い目は明らかに知性を持つものの目で僕らを見ていた。
 背筋を冷たい何かが這い登っていく。
 人間の、とうに消え失せてしまったハズの動物的な直感が告げていた。
 これは危険な敵だ、と。
 僕たちに勝ち目はない。
 ここでがんばる理由も無い。
 だったら、逃げるだけのことだ。
 ホテルに帰れればスターファイアmk2があるし、光流もいればクレイン兄さんもゲンキさ
んも眠兎さんもいる。
「行こう、逃げるんだっ!」
 僕はそう言って、カリンの手を引いて逃げ出そうとした。
 だが。
 カリンはその場を動こうとしなかった。
「…や」
「え?」
 カリンが何かを呟いた。
 それははっきりとは聞き取れなかったが、ひどく不吉な言葉に聞こえた。
「…い、やっ!いやだっ!ボクはいかないっ!」
「な…」
 いったいカリンは何を言っているんだ?
 パニックにでも陥っているのか?
「何を馬鹿な事を言っているんだ!死にたいのかっ!?」
「馬鹿な事なんて、言ってない!ボクは、逃げないっ!ここを!守るんだっ!」
 そう言って真っ直ぐに僕を見る漆黒の瞳には、強い決意と意志とがあった。
 パニックを起こしているわけじゃない。
 正気で狂気の選択をしようとしているんだ。
「あれにきみは勝てるとでもいうのかっ!?君の、君自身の力で!」
 僕はカリンの肩を乱暴に揺さぶりながら言った。
 こう話している時間すら惜しい。
「わかんないよっ!そんな事やってみなきゃわかんないだろうっ!」
 カリンはあせる僕の手を乱暴に振り払う。
 理解できなかった。
 彼女の気持ちが、行動が。
 非論理的を通りすぎて、気が狂っているとしか思えない。
「バカな事はよせ!いったい君は何を考えているんだ!?僕らにいったい何が出来るって言う
んだ?君がどれだけ強いかなんて知らないけど、無茶な事はするな!!」
 あせりも手伝って、僕は強い口調で言った。
 まるでそれに反発するかのように、カリンは僕のことをキッと見上げた。
「ここはっ!ボクの始まりの場所なんだっ!絶対にっ!壊させたりなんかしないっ!」
 そう言って、彼女は僕に背を向けて化け物の方を向いた。
 そしてゆっくりと両手を広げて深く深呼吸をはじめる。
「だったら、なおさらだ。君1人でいったい何ができる?」
 頼むから、論理的に考えてくれ。
「…じゃあ、京介さんだけでみんなを呼んできてよ。ボクは、いかない。ボクは、ここをなく
したくない。だから…残って頑張っているから」
 そういいながらカリンは、僕の方を軽く振り返って笑顔を浮かべた。
 僕を安心させるつもりなのか、自信があるのか、既に覚悟しているのか。
 カリンの考えている事は僕にはさっぱりわからない。
 ただ、とても僕にはその顔は笑顔には見えなかった。
 先程までの、無防備なカリンの笑顔とはかけ離れた、ただの表情。 
「…tulila…laru…laila…」
 カリンが静かな、だが力強い旋律を紡ぎ出し始めた。
 美しく響く声と共に、奇妙な力の流れが生まれる。
『…チ…カラ…』
 途端に、奇妙な声が辺りに響き渡った。
 野太く、甲高い。
 自然界に決して存在しないありえざる声。
 声というよりは不快なノイズだった。
『…をおおをおをおおおおぉ…』
 そんなうめき声だか吠え声だかわからない、不快なノイズと共に化物がこちらに前進をはじ
めた。
 ずるり、ずるり。
 ゆっくりと、だが確実に触手をのた打ち回らせながら化物は近づいてくる。
 そして化物が通り過ぎた後には何も無くなっていた。
 先程までカリンと一緒に話していた場所も、消え失せていた。
 溶解性の体液でも分泌しているのか、跡形も無く、何も無くなっていた。
 ただ、化物の背後には青い海とそれに映る月だけが美しく輝いている。
「lila…lilili………嵐よ、吹き荒れるがいい!稲妻よ!かけぬけるがいい!それでも私は動
かない!決して!避けるべきはお前達だと知るがいい!」
 一転してまるで歌劇のようにカリンは強く歌った。
 バチィッ!
 化物の周りで激しい火花が飛び散る。
 まるでそこに見えない壁でもあるように化物は動きを止めた。
 ほんの十数秒の間だけ。
 バチバチと魔力と力の干渉で起こる火花を身に纏いながら化物は悠然と、そして確実に歩を
進めてくる。
「li-lalalatulalila…」
 カリンは引き下がるつもりはかけらほども無いらしく、さらに美しく、気高い声で呪歌を紡
ぎ続ける。
 このまま、何の変化も無ければあの化物がカリンの立っているところまで到達するまでには、
3分30秒程度の時間を要する。
 僕にできる最善の選択は何だ?
 化物の目的はわからない。ただ、カリンの呪歌に反応し、『チカラ』と言っていた。
 目的はわからないが、強い"力"に惹かれるようだ。
 だとしたら僕らが逃げ出した場合、化物は僕らを追ってくるだろうし、仮に逃げおおせたと
しても僕ら以上に強力な力を持つゲンキさんや眠兎さんの方へと向かっていくだろう。その間
にあるもの全てを破壊しながら。
 被害は如何ばかりであろうか。
 やや季節外れだとしても、リゾート地での惨劇は想像に難くない。
 今はかろうじてカリンが侵攻を遅らせている。
 ホテルの面子がこちらに気付いてくれればいいのだが、それは希望的観測にしかすぎない。
 僕の現在の戦闘力は皆無に等しい。
 いても役に立たない。
 だったら?
 僕がこの場を離れ、この状況を打開できる戦闘力を有した誰かに知らせればいい。
 僕の脚力ならホテルまで片道2分30秒。
 この異変に誰か気付いてくれていれば、それが誰であっても転移能力を有している。3分弱
でここに帰ってくる事が可能だ。
 誰も気付いていなかったとしたら?
 その場合は最悪でも被害者は1人だ。
 それ以上にはならない。
 これが最善の選択だ。
「…僕は誰かを呼んでくる。それまでがんばれるね?」
 僕の問いかけにカリンは微笑みで返した。
 呪歌を歌っているがゆえに口では応えられない。
 だから微笑んだ。
 僕はその微笑みを肯定と受取り、踵を返して走りはじめた。
 僕にできる事をまっとうする為に。

 

−10−

「lailalailalailalalala…」
 音程、言葉の強さ、こめる魔力、姿勢、視点。
 それら全てに注意を払いながらカリンは呪歌を紡ぐ。
 側にいたハズの京介はもういない。
 他の誰かを呼びに行ったからだ。
 あーあ、やんなっちゃうな。
 カリンは心の中でそう呟いた。
「lailalailalailalalala…」
 呪歌は続く。
 だが、ゆっくりゆっくりと化物は近づいてくる。
 またここで独り、か。
 カリンは目を閉じた。
 楽しかった。
 目が覚めたらここにいて、自分の名前しかわからなかった。
 いろんな施設といろんな人達の間を渡って、セブンスムーンにたどり着くまで辛い事ばかり
だったけど、それでもボクはボクとして生きてこれた。
 セブンスムーンの孤児院ではボクがお母さん役で、皆の面倒見ながら学校行って…きっと一
生付き合えるような友達もできたし、ステキな男の子にだって出会えた。
 充分だね、きっと。
 逃げ出せちゃえばいいんだけど、数少ない過去はなくしたくないから。
 逃げ出すなんてこと、出来ない。
 なくしちゃうぐらいなら死んだ方が…
 まし、なのかなぁ。
「…la………」
 一瞬、カリンの歌声が止まった。
『をおおおおををををおを』
 奇妙なうめき声と共に化物がまるで猫科の生物が獲物に襲い掛かるように跳ねとんだ。
「laalaalilallailalaila…」
 涙を拭って目を開けて、カリンは再び呪歌を紡ぎだした。
 バチバチッと火花が散り、まるで弾かれたように化物の巨体が落ちる。
『うををおおおをおうううおうう』
 不満気な声をあげながら化物の触手がのたうつ。
 そして再びゆっくりと、だが確実に化物が前進を始めた。
 疑問がカリンから力をごっそりと奪っていく。
 だが、もう逃げるには遅すぎる。
 歌い続けるしかないのだ。
 "死"がカリンにとって急激にリアルになってくるのを感じた。
 カリンは歌い続けながらも、自らのあまりにも短い人生を振り返った。
 今から考えれば、なんてステキなありふれた日々だったんだろう。
 特別な事が無くたって、ボクはその時その時を生きていたんだ。
 それももうすぐ終わり。
 ボクの始まりの場所の終わりと共にボクも終わる。
 カリンの視線の先では少しづつ少しづつ思い出の場所が無くなっていった。
「la…la………ごほっごほっがふっ!!」
 急にカリンは咳き込んだ。
 押さえた口から血がぽたぽたとこぼれおちる。
 もう限界だった。
 呪歌は術者の喉と体力を著しく消耗させる。
 体力はともかく喉が限界だった。
「ちぇ…しまんないの…」
 がらがら声でカリンは呟いて目を閉じた。
 どすどすどすっと自分の周りで音がした。
 恐らく触手が地面に刺さった音だろう。
 悔いの無い人生なんてこの世にあるのかな?
 ボクは…最後の最期で失敗しちゃったみたいだ。 
「…ボク…死にたく…ないよ…」
 カリンは文字通り血を吐きながら、たった一言だけそう呟いた。
 それは心からの一言。
 だが、その声を聞くものはここにはいない。
 ただいるのは無慈悲な化け物だけ。
『えんはんんんさああぁあ』
 化け物が声ともつかぬ唸り声を上げる。
「うおおぁあああああっ!」
 誰かの叫び声。
 だれ?
 そしてカリンの身体が何かに強く引っ張られた。

 

−11−

 僕は走った。
 ただ、僕にできる事はそれだけだと信じて。
 …最悪でも死者は一名。
 数字上はたったの一名だ。
 たったの一名…。
 照れたように笑うカリン。
 美しく、儚げな歌声。
 昼間のはしゃいでたカリン。
 夜の、綺麗だったカリン。
 たった一名の損害。
 誰でも出来る数の勘定だ。
 僕が走って誰かを連れてくることで、スターファイアmk2を持ってくることでこの近辺の
住民は救われる。
 僕の行動は正しい。
 …。
 ……。
 ………。
 正しいの、か?
 カリンは死を覚悟していた。
 きっと別れ際の微笑みは僕の背を押すためのものだ。
 今なら、まだ間に合う。
 引き返して…
 …バカな、引き返して何が出来る?
 僕は…間違えた選択は出来ない。
 それが僕に望まれる事だ。
 ………。
 僕は立ち止まった。
 何を考えているんだ?
 間違えていいのか?
 冷めた思考が僕を止める。
「僕は…バカだ!」
 叫びながら、僕は街路樹として植えてある椰子の木に頭を叩きつけた。
 じん、と頭に衝撃が響き渡る。
 何が被害者は一名ですむ、だ?
 僕は何様だ?
 僕は何をした?
 正しい?
 そうさ、これは全体から見れば正しい。
 僕は正しくないとわかっていながら戻るのか?
 それは独り善がりのヒロイズムに過ぎない。
 特攻精神は何も生み出しはしない。
 あるのは破滅だけだ。
 冷めた論理的な思考が僕を止める。
 そうさ、間違ってる。
 僕は今まで走ってきた道を振り返った。
 この向こうに、カリンはいる。
 なぜ、僕は無理してでもカリンを連れてこなかった?
 それは彼女が僕の説得を聞く様子が無かったからだ。
 付き合って破滅する必要は無い。
 彼女が食いとめられると考えたのか?
 いや、無理だと考えた。
 多少の抵抗とは成り得ても所詮は時間稼ぎに過ぎない。
 じゃあ何故?
 僕の命の危険があったからか?
 違う。
 ぼくは…しっぱいしたくなかったんだ。
「…は、ははは…本格的な、バカだ」
 僕は気付いた。
 僕を今まで支配していた盲目的な思考に。
 僕は、あの高台へ、カリンの元へと走り始めた。
 僕は、一度大きな過ちを犯した。
 多くの人を傷付け、破滅へと追いやり、自らも破滅した。
 僕は孤独だった。死ぬ瞬間まで。
 その僕に再生のチャンスをくれたのはクレイン兄さんだった。
 僕を赤子まで戻してやり直すチャンスをくれた。
 もう、独りになるのは嫌だった。
 だから失敗を極度に恐れた。
 何か一つ間違えれば、また孤独になってしまうような気がしていた。
 僕はバカだ。
 頭がいいふりをしたバカだ。
 失敗する事を恐れて他人を見捨てるものが孤独を恐れるなんて、バカ以外の何者でも無い。
 だったら、どうせバカなのなら、頭がいいふりをして何もしないよりも、行動して後悔した
方がいい。
 それが死につながるとしても。
 今、戻らないよりはきっと後悔しない。
 途中、武器になりそうな木切れを拾って僕はひたすらに走った。
 間違えていても構わない。
 ただ心の命ずるままに。
 僕は走る。

 

−12−

 触手がうねりながら辺りを破壊していた。
 いや、破壊という表現は正しく無い。
 "破壊"ならば砕けた破片が残るのだろう。
 だが、触手がのたうった後には何も残らなかった。
 これは"破壊"ではなく、もはや単なる"消去"だ。
 海生生物特有のどこを見ているかわからない目ではなく、あきらかに意志の感じられる視線
で巨大なイカの化け物は目前の少女…カリンを見ていた。
 抵抗はもはや感じられなかった。
『えんはんんんさああぁあ』
 化け物は得体の知れない声をあげた。
 カリンの肩がびくりと振るえる。
 身の内の"モノ"から伝わってくる異界の知識。
 それが目の前の少女の正体を告げていた。
 得ればより強い力が手に入る。
 化け物はそれを知り、目の前のカリンへと触手を伸ばす。
 破壊のための力の発動を止めて、身の内へ取り込む準備をはじめた。
 取り込む方法は極めて単純だ。
 身の内へと収め、身体をつなげ、精神をつなぐ。
 たったそれだけで、相手の力の全てを自分のものと出来る。
 より強き力を、より大きな破壊を。
 それがこの化け物の望みだった。
 理屈では無い。
 本能がそれを求めているのだ。
『ちぃかぁらあああああ』
 化け物はうめきながら触手でカリンを捕らえようとした。
 まさにその瞬間に。
 まるで矢のように京介が辺りをのたうつ触手の間を駈け抜けていった。
 目の前の標的に気をとられすぎて、別の標的の接近に化け物は全く気付いていなかったのだ。
「うおおぁあああああっ!」
 らしからぬ絶叫と共に、京介は手にした木切れをカリンに伸びる叩きつけた。
 そしてすぐにカリンを抱きかかえた。
『うおをおおおおををををおん!』
 化け物が怒りの声をあげる。 
 何者も恐怖を感じさせずにはいられない、そんな咆哮。
「うるさいっ!」
 負けじと京介が文句をつけてカリンを抱えたままダッシュする。
 本来こんな事が出来る体力は京介には無い。
 火事場のバカ力。
 その単語が今の状態を的確に現していた。
「きょ、京介さん!?」
 かすれて、がらがらの声でカリンが驚きの声を上げる。
 まだ戻ってこれるはずのない京介の登場と、その京介のらしからぬ乱暴な態度とが出させた
声だ。
「…ごめん、助けは、ない。途中で戻ってきたんだ。」
 木切れをめちゃくちゃに振り回しながら、京介は息を切らせてそう言った。
 何もかもが中途半端な選択。
 助けるつもりがあるのなら、最初から一緒にいればいい。
 見捨てるつもりだったのなら誰かを連れてくればいい。
 そのどちらでもない自分の行動を京介は、自身をそう評価していた。
 だが。
「…充分、だよ。ボクには…帰って来てくれたってだけで。」
 今度こそ作り笑いではない、本物の笑みをカリンは浮かべた。
 綺麗なアルトの声はがらがらにかすれ、呪歌の反動で身体は消耗しきっている。
 独りじゃない。
 その想いが彼女を強くする。
 気力で体力を補いながら、カリンは京介に頼り切りではなく、自分の足で逃げ出しはじめた。
『か、み、よ、びぃイイイイ!!』
 そう叫びながら化物はめちゃくちゃに触手を動かす。
 逃げる京介達。追う化物。
 ランダムな触手の動きを京介は巧みに先読みしながらカリンを連れて逃げる。
 どすっ。
 触手の一本が京介達の頭を越えて、目前に突き立った。
「くっ!?」
 京介はカリンの手を引いて右へ。
 どすっ。
 左。
 どすっ。
 どすどすどすどすどすっ。
 次々と京介達の行く手を阻むように触手が大地に突き立っていく。
「くそっ!」
 京介は目前の触手に木切れを叩き付けた。
 まるで何の手応えもなく、京介は木切れを振り抜く。
 だが、触手は微動だにせずに、行く手をふさいでいる。
 空振り?
 いや、そんな事はない。
 見れば手に握った木切れは、京介の持つ根元の方を残して無くなっていた。
 折れたり、切れたりしたのではなく、綺麗に消えていた。
 木切れを投げ捨て、京介は目前の触手を軽く見た。
 1,2,3…
「こっちだっ!」
 タイミングを合わせ、触手の脈動で出来た隙間をぬって京介とカリンは触手の檻を抜け出し
た。
『の、が、サ、ヌううううぅ』
 がなり声と共に、一本の触手が鞭のように凄まじいスピードで跳ねる。
 鞭の達人が振るう鞭の穂先は音速を超えるという。
 普通の人間には決して見切る事のできない領域の攻撃だ。 
「ーっ!?」
 京介が声にならない声を上げる。
 直後、カリンを巻き込んで京介は派手に転倒した。
「大丈夫っ!?」
 がばと起き上がって、カリンはしわがれた声で尋ねた。 
 京介は、答えずに、顔だけを上げた。
 ちらり、と自分の下半身を見る。
「最悪だ。」
 京介は思わず呟いた。
 痛みはかけらほどもなかった。
 だが、無くなっていた。
 右足の膝から下が。
 出血も痛みも感じさせずに、いかにして京介の足を奪ったのか?
 だがこの場で重要なのはまたも原因ではなく現在だった。
「いけっ!」
 京介は乱暴にカリンを突き押した。
 そのために自分は戻って来たのだから。
 躊躇はなかった。
 だが。
「いやっ!京介さんを置いて行けるわけないでしょっ!?」
 カリンも躊躇なく答えた。
 よろめく身体を無理矢理動かして、カリンは京介に肩を貸して立ち上がる。
 だが。
 化け物はドラマを待ってはくれなかった。
 どすどすどす。
 再び触手が京介達を囲むように触手が打ち込まれ、ずるり、と巨躯が立ち上がった。
 圧倒的な巨体。圧倒的な破壊力。そして圧倒的な威圧感。
 何をやっても無駄。
 そんな絶望感が二人の心を侵しはじめる。
『かぁみいいよぉをびひぃい…とぉりひきぃだぁあああああ』
 そして、それを見越したように化け物が不快なノイズで二人に告げた。
 かみよび。
 それは少なくともカリンを指す言葉ではない。
 スターファイアmk2の所有者であり、あまたの神を使役する事のできる京介にこそふさわ
しい。
「…言ってみろよ、化け物」
 京介は低い声で答えた。
 言いながら、何か方法がないのか必死で考えていた。
 さしあたって、何のチャンスもなさそうだ。
 だが、時間を稼ぐのも悪くはない。
 "誰か"がこの異変に気付いてくれるかもしれない。
『おをまぁああえぇのおぉをちいからあああがぁああほぉしいいいい』
 二本の触手を絡ませながら化け物がいった。
 まるで官能に震えるかのように、小刻みに化け物が揺れる。
 己が欲求を満たす更なる強大な力。
 それが今、目前にあるのだ。
「…残念だったね、お互いに。今、スターファイアmk2は手元にないんだ。君にくれてやれ
ない。それとも取りに行かせてくれるのかい?」
 京介は肩をすくめながら答える。
 ダメでもともと、というよりも自棄に近い態度だった。
『かぁみいいよびぃいはぁおまああぇええだぁああ。もおをのおおなどぉおいらぁああぬぅう
う』
 意外にも化け物は律義に答える。
「…?」
 だが、京介自身にはその言葉の意味は理解しかねた。
 もっとも、この化け物自体が本当の意味で言葉を理解しているのかすら謎だ。
『かぁみいいよびぃい、おおぉをまえへがああぁおとなしくううくわれればぁああああ、えん
はんさぁああはぁああのがしてえええやあるうぅううぅう』
 化け物はそう言うと、京介の答えを待った。
 が、京介には化け物の意図が理解できなかった。
 何故、こんな取り引きを?
 これだけ圧倒的な化け物だ。
 その気になれば、どうやっているのかはわからないが僕たちを"消す"事ぐらいはたやすい
はずだ。
 ならば何故?
 京介は絶望で一杯になっていた脳髄に新たな活力が生まれてくるのを感じた。
 仮説は3つ

 1. 既にホテルの誰かが今の事態に気付いている。新たな敵との交戦の前に焦りを感じてい
   る。

 2.単なる遊び。単に面白半分で交渉を持ち掛けている。

 3.化け物の発言をとるなら、僕自身が"神呼び"であり、僕が神を召喚する可能性がある。    
   余計な事をする前に、といったところか。

 どれも否定も肯定も出来ない仮説だ。
 ただ、一つ言える事は化け物の要求を飲めば僕は確実に死ぬ。
 そしてカリンも高い確率で死ぬ。
 少なくともあの化け物は"力"に固執するふしがある。
 僕の知る限りでは数少ない"呪歌"の歌い手を逃すはずがない。
 ただし、カリンの生存の可能性が全くないわけではない。
 化け物が約束を守るというのなら。
『こおおぉたああえろおおぉをお、かあぁみいいよびひいいいぃ!』
 化け物が大音声で吠えた。
 耳障りなノイズが京介とカリンの耳朶を打つ。
 カリンは京介を見ていた。
 不安げな表情で。
 すがるような、どこか小犬のような目。
 カリンはいったい僕に何を求めているのだろう?
 僕はここにいったい何をしに来たんだ?
 僕に何ができる?
 京介は声に出さずに心の中で呟く。
 そして、自分自身が驚くほどばかばかしい結論にたどり着いた。
 取り引きに応じるか、否か。
 答えはもう、すでに、決まっていた。
「…よく聞け、化け物!」
 大声でそう言った京介の瞳に、もう迷いはなかった。

 

13−

 月や星明かりが煌々と照らしているとしても、夜は夜。
 今は闇の時間なのだ。
 その闇に、妖しく青く輝くものが唐突に現れた。
 それは、瞳だった。
 そしてその周りには、まるで墨を流し込んだかのような闇があった。
 かすかな空の恵みである月明かりも星の光も照らせぬ闇の中、ただ、その瞳だけが強い光を
発していた。
 まるで爬虫類のような、横にながほそい瞳孔が妖しさを余計に際立たせている。
「…期待通り、というべきか?」
 偶然が力を貸したにせよ、思った以上の効果をあげている様子を見て、"闇"は上機嫌な様
子だった。
 青い視線の先には追いつめられた京介達がいる。
「あとは、植え込むだけ、か。」
 呟く調子にはひどく冷酷なものが含まれていた。
「いずれにせよ、あれには滅んでもらわねばならぬ。我が、完全なる身体を得るためにな」
 "闇"そのものにこの様な表現は適切かどうかは解らないが。
 "闇"は笑っていた。
 そして、"闇"は消えた。
 現れた時と同じ様に唐突に。

 

 


 


 かつての僕に欠けていたもの。
 それは一体なんだったのだろうか。
 今の僕に欠けているもの。
 それはいったい何なのだろうか。
 かつての僕は、復讐に生き、復讐に死んだ。
 誰も信じることなく、誰も愛さなかった。
 じゃあ、今の僕は?
 誰かを信じ、誰かを愛しているのだろうか?
 誰かに信じられ、誰かに愛されているのだろうか?
 少なくとも自信は、ない。

 

−14−

 蠢く触手の柵の中、僕は化け物の不気味に赤く輝く目を見た。
 僕の答えはきっと正しくはないだろう。
 僕が死ねば、カリンは助かるかもしれない。
 目を向ければカリンは化け物ではなく、僕の事をじっと見ている。
 でも、だから。
 僕は意を決して化け物に高らかに宣言した。
「答えは、『NO』だ!僕は、諦めない。僕も、カリンも、助かってみせる!」
 この状況から助かる方法はゼロに等しい。
 それでも。
 僕はこの答えを選んだ。
 僕が取り引きを承諾して死ねば、カリンは助かるかもしれない。
 でも、それはある種の無責任な逃避だ。
 死んでしまえば、きっと僕は満足するだろう。
 少なくとも一人の女の子を助けた気になって死ねるのだから。
 だけど、その後はどうなる?
 カリンはやはり殺されるかもしれないし、生き残れたとしても、心に負い目を残して生きる
事になる。
『来てくれただけで充分だよ』
 カリンはさっき、そう言ったんだ。
 また、彼女を独りにするのか?
 だったら、せいぜいあがいて一緒に死んだ方がマシだ。
 僕らしくない、ひどく感情的な意見だ。 
「…ありがと」
 立ち上がれない僕をぎゅうっと抱きしめながら、カリンは確かにそう呟いた。
 カリンが何を思って、そう呟いたのかはわからない。
 僕の答えは正しかったかどうかはわからないけど、間違えてはいなかった。
 そう思う。
『るおぉぉおおをおおおをををををおんっ!!』
 化け物が怒りの咆哮をあげた。
 僕とカリンの下の地面にひびが入る。
 今の僕は右足がない。
 カリンに肩を借りたとしても逃げ出す事はおよそ不可能だ。
 僕自身に戦う力はない。
 カリンのアルトの綺麗な声は枯れ、既に疲労が足にきているような状態だ。
 カリンにも戦う力はない。
 だとしたら?
 呼ぶしかない。
 僕ら以外の誰かを。
「祈っててくれよ」
 僕の唐突の言葉にカリンがきょとんとした顔をする。
「僕が、うまくいくように」
 そう言って、僕はのたうつ触手に邪魔されて見えない空に向かって、左手を上げた。
 化け物は僕を"神呼び"と呼んだ。
 スターファイアmk2を持たない、この僕を。
 何故だ?
 答えは一つ。
 僕には"神を呼ぶ力"がある。 
 スターファイアmk2は誰もが使えるものじゃあない。
 ある種の専門的な知識と、そして適性を必要とする。
 適性。
 それは僕にある"神を呼ぶ力"の事なのでは?
 いや、疑問に思うな。
 僕は呼べる。
 そう信じろ。 
 来い。
 来い、ガブリエル。
 今までと同じ様に、僕を助けてくれ。
『こおおおおうぅくわああいぃしいいるおおおおおぉををおっ!』
 怒りとも憎しみともつかぬ吠え声をあげ、化け物は触手を振り回しはじめた。
 知覚できぬ速さで、触手がいっせいに跳ね回る。
 大丈夫、僕らを殺す気はない。
 ただ、痛めつけるだけだ。
 その気があるなら、もう僕らは消えてなくなっているはずだ。
 そうしないのは生かしておきたいからだ。
 恐らく、力を取り込むのには食う必要があるのだろう。
 生きたままで。
 だから無力化するためにただ痛めつける、そのはずだ。
「んっ…」 
 カリンが小さな悲鳴を上げる。
 触手が跳ね回り、僕とカリンを打つ。
 無数の触手が、衣服を皮膚を切り裂く。
 痛い、苦しい。
 負けるな、今度こそ、僕は失敗してはならない。
 失敗しちゃあいけないんだ。
 来い。
 来い、ガブリエルっ!
 僕の焦りをよそに、何も変化は起こらなかった。
 ………。
 駄目なのか?
 やっぱりスターファイアmk2が無ければ、召喚神を呼ぶ事は出来ないのか?
 間断無く触手が身体に叩き付けられる苦痛で、意識が混濁しはじめる。
 くそ。
 くそっくそっ!!
 やっぱりダメなのかっ!?
 失敗しちゃあいけないんだ。
 カリンを死なせたくない。
 僕は何のために生きて来た?
 僕は、罪を償わずに死ぬのか?
 僕は、僕は、僕はっ!! 
「…大丈夫だよ」
 ふと、そんな言葉が僕の耳に入った。
 その直後、急に苦痛が和らいだ。
 何故?
 当たり前だ。
 カリンが僕に身体を預けるようにして、僕に覆い被さってかばってくれているんだ。
「…失敗したって、いいんだよ?だめだったら、もう一回ボクががんばるよ」
 まるで、僕の心を見透かしたように、カリンは言った。
「大丈夫、ボクはがんばれるよ、京介さんがボクに勇気をくれたから。」
 触手に打たれて、痛みも苦痛もあるだろうに、カリンはそう言って笑みを浮かべた。
 信じてる、きっと僕にならできる。
 そんな言外の意志がひしひしと僕に伝わってくる。
 僕が何をしようとしているのかすら知らないはずなのに、信じてくれている。
 こんな時に、こんなことを考えるのはひどく不謹慎だと思う。
 でも。
 嬉しかった。
 がんばらなきゃと思った。
 いつものようなとがった義務感からではなく、心の底から突き動かされるように。
 そう思った。
 かばってくれているカリンの背中に手を回して、軽く抱きしめながら僕はカリンと体勢を入
れ替えた。
 今度は僕が守る番だ。
 触手が、僕を責めさいなむように打つ。
 僕を信じてくれる人がいるから。
 負けない。
 こんな苦痛なんかに。
 自分を疑う心なんかに。
「来い!ガブリエル!」
 今度は口に出して僕は言った。
 瞬間、僕の心は真っ白になる。 
 差し上げた僕の左手の先から光が満ち溢れ…
 そして時が止まった。

 

−15−

 奇妙な部屋だった。
 出入り口らしき場所はコンクリートを塗り込めて塞いであった。
 部屋の中は暗灰色のみで彩られていて、本以外は何もないような部屋だった。
 例外はテーブルと、椅子が一脚。
 あとは部屋の半分を本と本棚が占めていた。
「…なんだ、ここは?」
 奇妙な苛立ちを感じながら僕は呟いた。
 理由は分からないがこの部屋はひどく僕を苛立たせる。
 それに、僕は今何をしていた?
 ………。
 そうだ、カリンと僕は…
「そう、気をもむな。ここでは時は止まっているようなものだ。事は一瞬で終わる。」
 不意に声が聞こえた。
 低く、聞くものに奇妙な安心感を感じさせる声。
 目をむけると、そこには"影"が立っていた。
 そう、"影"だ。
 僕の足から伸びる、影が立ち上がって本を読んでいる。
「どういう事だ?」
 僕が質問をすると、影は本を置いてこちらを見た。
 影がにたり、と笑う。
「ここはお前の心の中だ。そして、現実では戦闘は続行中だ。ああ、安心しろ、先ほども言っ
たが、そうは感じなくてもこれは一瞬の出来事だ。」
 にわかには信じがたい言葉だ。
 こんな息苦しい、閉鎖的な部屋が僕の心なのか?
 だとしたらこいつは何だ?
 僕の心の影だとでもいうのか?
 焦りもあってか、妙にいらいらする。
「で、君は?」
 僕はいらだたしげに尋ねた。
 これが仮に僕の心の中で一瞬の出来事だとしても、のんびりしている余裕は僕にはない。
「そうだな…呼び名はいろいろとあったが、気に入っているのは"ナイトハウリング"だ。」
 そう答えると影は優雅にお辞儀をした。
 僕はそのお辞儀をあえて無視する。
 だが、そんな僕の態度を気にも留めずに影は先を続けた。
「『力』がほしいのだろう?」
「『力』?」
 こいつはいったい何を言っているのだろう。
「そう、『力』だ。何者にも負けぬ、お前のための力だ。」
 その言葉は今の僕にはひどく魅力的に感じた。
 力があれば、今の状況を打開できる。
 力があれば、劣等感を感じることもない。
 力があれば…己を誇ることができる。
「力…」
 思わず呟く。
 なんと甘美な響きか。
「そう、『力』だ。今の何かを使役するようなまやかしの『力』ではなく、お前自身のお前の
ための『力』だ。気に入らぬものはお前が叩きのめし、欲しいものはお前が奪える。そう、お
前に失敗はありえない、もう二度と。」
 ナイトハウリングはまるで歌うように言った。
 ああ、そうだ。
 僕は、力がほしい。
 …いや、だめだ。
 危険だ。
 聞いちゃいけない。
 僕の中の何かが必死に止める。
「さあ、『力』が欲しければくれてやろう。私の手を取るがいい。」
 ナイトハウリングが僕に向かって手を差し出した。
 あの手を取れば、僕に『力』が…
 そう思った時にはすでに僕はナイトハウリングに向かって手を伸ばしはじめていた。
 この手を握れば、僕は強くなれる。
 『力』だ。
 『力』が手に入る。
 そして今にも握ろうとした瞬間。
 ふと、その手にあたたか味を感じた。
 まだナイトハウリングの手を握ってはいない。
 と、僕は急激に自分の意識が覚めていくのを感じた。
 『力』。
 確かに欲しい。
 与えられる力がどんなものかはわからない。
 でも、その力をもって僕の望むまま思うままにするというのなら、それは過去の復讐鬼とし
て生きた僕と何ら変わらない。
 僕は再びそうなりたいのか?
 あの頃の誰も信じず、誰も愛せない僕に戻りたいのか?
 『力』を得る事がそれにつながるとは限らない。
 でも、いまこの『力』を求めるのは、きっとそういう事だと思う。
 与えられる『力』なんていらない。
 僕には僕の『力』がある。
 僕の『力』を信じてくれる人がいるから…
 僕は僕を信じられる。
 僕は同じ過ちをおかさない。
 僕を信じてやり直させてくれた人達がいるから。
 そう、僕は信じられているんだ。
 償って欲しいなんて誰も言わなかった。
 同じ過ちをおかすななんて誰も言わなかった。
 クレイン兄さんも、じゅらいさんも、焔帝さんもゲンキさんも幻希さんもレジェンドさんも
誰も言わなかった。
 そう、誰も言わなかったんだ。
 その事に触れたくなかったからじゃない。
 僕なら大丈夫。
 皆、そう信じてくれていたからなんだ。
 僕はその信頼を裏切るのか?
「どうした?欲しくないのか?」
 ナイトハウリングが囁くように言った。
 もう、魅力は感じなかった。
「ああ、いらない。僕にはもう充分すぎるほど『力』がある。そう信じられているし、僕もそ
う信じる。」
 僕は答えた。
 後悔など、微塵もない。
「残念だ。策は失敗したようだ。」
 影は面白くもなさそうに言う。
 が、やがてまた、にたりと笑った。
「だが、光と闇を惑う者よ、覚えておくがいい。お前には光の中は眩しすぎる。だが、お前に
は闇の中は恐ろしい。さればこそ、私はお前を誘おう。お前が闇の中をいつでも歩けるように。
お前がそうと望めばいつでも私がお前に『力』を与えよう。」
 演説が終わると同時にナイトハウリングはしおれる。
 正確にはしおれて再び僕の影に戻ったのだ。
 光と闇を惑うもの、か。
 言い得て妙だな。
 いつだって僕はそうだろう。
 いままでも、そしてこれからも。
 光と闇の間を迷いながらおっかなびっくり歩いて行くのだろう。
 だけど、それでも、僕は決してお前を選ばない。
 僕を信じてくれる人達がいる限り。
 不意に、あたたかかった左手から眩しい光が溢れ出して来た。
 がたん、と何か音がする。
 見れば扉をふさいでいたものが何もしていないのに勝手に落ちていた。
 さあ、戻ろう。
 僕を信じてくれている人のもとへ。
 理由なんかないけど、この扉をくぐればきっと現実に戻れる、そう思った。
 僕は、自分の心の扉のノブに手をかけて、ゆっくりと回した。
 扉はゆっくりと開いて、やがて眩しい光が僕を包んでいった。

 

−16−

 眩しい光があたりを包んでいた。
 左手に感じる暖かみ、それはカリンの右手だった。
 僕の伸ばしていた手をやさしくカリンが握っている。
 そうか、やっぱりな。
 僕はなぜだか妙に納得した。
「マスター…」
 不意に頭上から声がかけられる。
 そうだ。
 僕は呼んだ。
 他でもない君を。
 ガブリエル、僕の使用頻度の一番高い召喚神。
 目をむければいつものように穏やかな笑みを浮かべた金髪の美女が僕を見ている。
 薄絹を身に纏い、その背には複数の純白の翼。
「…初めて、"呼んで"くれましたね、マスター」
 そう言って彼女は嬉しそうに笑った。
「そうだな…そうかもしれないな」
 言いながら僕も笑った。
 いままで僕は神を使役する事はあっても、神に助けを請う事は無かった。
 だけど、僕は"ガブリエル"に助けを求め、彼女はそれに答えた。
 それが"呼ぶ"という事なのかもしれない。
 僕と、ガブリエルとの契約では無い関係。
 それを結ぶのはきっと信頼という名の絆。
『をおおおおぉおおんんっ!』
 化け物が吼え声をあげ、触手を振るった。
 りぃん…
 鈴の音のような音と共にガブリエルが結界を張る。
 触手は流水の壁に流され、その攻撃が京介達に届く事は無かった。
「すごい…すごいよ、京介さん!」
 カリンが僕に飛びついて興奮気味に言った。
 直前が絶望的であっただけに感激するのも無理は無い。
 だけど、僕はまだそんなに楽観視はしていなかった。
「マスター、とても危険な相手です。あれはサタナエル級の"滅び"の力を有しています。今は
まだ使っていないようですが、"滅び"の力を使われれば私の結界でも防御不能です。」
「わかってる。だけど、逃げない。ここでかたをつけるさ。」
 僕はそう言いながら、抱きついているカリンの手を再び取った。
 カリンがきょとんとした顔で僕を見る。
 なんだろう。
 そんな顔。
「カリンは僕が勇気をくれるって言ったけど…」
 言いながら目を閉じる。
 先程と同じように、心で強く念じる。
 そうさ、呼べる。
 どんな召喚神でも、どんなモノでも。
 僕を信じてる人がいるから、僕も信じられる。
 僕自身を。 
「それは僕も一緒だ」
 無謀な事を言ってここに残ると言ったカリン。
 きっかけは彼女のわがままだったのかもしれない。
 だけど、そのわがままが僕に気付かせてくれた。
 僕に欠けているものが何か、を。
「カリン、君が僕に勇気をくれた。他人を、そして自分を信じる勇気を」
 僕に欠けていたもの。
 それはたったひとかけらの勇気。
 間違える勇気。
 人を信じる勇気。
 そして、僕自身を信じる勇気。
「来いっ!ミカエル!ラファエル!ウリエル!」
 僕の声に応えて、次々と召喚神が現れる。
「何なりと御命を、我が主。」
 と、ミカエル。
「なんでも任せな、マスター」
 ラファエルは陽気に笑った。
「………」
 ウリエルは何も言わずに頷いた。
 僕は、ぞくぞくとするような高揚感を感じた。
 まるで、世界が急に広がったみたいだった。
『おおおをううううぅおおぉおおおおおんんん!!』
 化け物が吼え声を上げ、触手を大きく振るった。
 当たるもの全てを消滅させる滅びの力だ。
 ばさり。
 大きな何かが羽ばたく音。
 僕が何も言わなくても、ガブリエルは僕とカリンを連れて飛びあがった。
 ガブリエルの結界を触手が切り裂いた。
 それだけには飽き足らずに、シュオッという奇妙な音と共に地面が消滅する。
 中途で大きな裂け目が入ったため、化け物の巨体を支える事が出来ずに高台がガラガラと崩
れていく。
 このまま逃げるつもりか。
 そうはいくか。
 僕がそう考えるや否や、一斉にミカエル達が攻撃を開始した。
 ウリエルの剣が触手を切り裂き、ラファエルの起こした風が化け物の身体をずたずたに引き
裂いた。
『うおをおおおおおおおんっ!!』
 化け物が苦痛の悲鳴を上げる。
 とどめだ。
 僕がそう思うと同時にミカエルの炎の剣が化け物に突き立った。
 ごうっ、と化け物の全身から炎が吹き出す。
『ぎぃいいいいいいいいっっっ!!!!!!!』
 化け物が断末魔の悲鳴を上げた。
 筒状の口から、目から轟炎を吹き出しながら化け物が落ちて行く。
 ばじゅんっ、と弾けるような音と共に化け物であったものは海に落ちた。
 その熱で海が沸騰し、もうもうと白い水蒸気がたちこめた。
 これでは化け物が死んだのか、確認は出来ない。
 だが、倒したという確信はあった。
「…死んだのかな?」
 カリンが、ポツリと呟いた。
「多分、ね。」
 僕はそう返事をしながら、ガブリエルにゆっくりと安全な場所に着地させた。 
 声にしなくとも、ガブリエルは僕の意志を感じて行動してくれる。
 ガブリエルだけじゃない、ミカエルもラファエルもウリエルもそうだった。
 これが、"神呼び"の力なのだろうか?
「ありがとう、ガブリエル。ミカエル、ラファエル、ウリエル、お疲れさま。」
 ぼくの言葉に召喚神達は一様に笑みを浮かべた。
 そして、ラファエルとガブリエルを残してミカエルとウリエルは消えていく。
「ああ、この足は"消されて"るな。こいつは俺にも治療できん。どうする?俺とガブリエルで
宿まで送るか?」
 ラファエルが治癒の力を使いながら僕たちに尋ねた。
 ガブリエルが心配そうに見守る中、カリンと僕の傷がゆっくりと治っていった。
 ただ、やはり足だけは治らなかった。
 "消された"、か。
 じゃあ、"創造"する必要があるな。クレイン兄さんのシヴァにでもお願いしたほうがいいな。
「いや、いいよ。歩いて帰りたいんだ。カリンと一緒に」
 僕がそう答えると、ラファエルは黙ってにやりと笑った。
 ガブリエルはといえば、ちょっとだけ困ったような顔をする。
 それからため息をついて、にこりと笑った。
「わかりました。でも無理は禁物ですよ、マスター」
 それだけ言うとガブリエルは光の粒になって消えた。
 まい散る光の粒がまるで蛍のように美しかった。
「ま、邪魔はせんよ」
 ラファエルはそう言って一陣の風と共に消える。
 後に残されたのは、カリンと僕だけだった。
 余計な事、いうなよな。
 意識しちゃうだろ?

 

−17−

「…よかったの送ってもらわなくて?」
 カリンが僕に尋ねる。
 それは、送ってもらったほうが、楽には違いない。
 だけど。
「いいんだ。もう少しだけ、カリンと話したいんだ。」
 僕がそう言うと、カリンは少しはにかみ混じりに笑った。
 が、すぐにその表情は曇る。
 晴れのちくもり、かな。
「なくなっちゃった…」
 ひどく悲しげに呟くカリンの視線の先には、ただ断崖絶壁と海とが広がっていた。
 カリンの始まりの場所はもうそこには無かった。
「そうだね…でも、本当に無くなったわけじゃあないさ。」
 僕の言葉に、カリンが僕に視線を向ける。
 絶望と、希望と、悲しみと、喜びが入り交じった複雑な表情だ。
「だってカリン、ここに君がいる。始まりがあったからこそ、ここに君がいるんだ。場所はな
くなってしまったけれども、思い出は残るさ。」
「うん」
 ラファエルの癒しの力で元に戻った、アルトの綺麗な声でカリンは返事をした。
「僕は確かに覚えている。カリンと一緒に見た、青い海を、あの景色を。カリンが忘れたって
僕が忘れない。だから、大丈夫。カリンの過去は確かにあったんだし、もう、なくならない
よ。」
「うん…」
 うつむいたまま、カリンは返事をする。
 今度はややハスキーな声で。
「僕も、君もおかしな過去を背負ってる。僕はもう一つの過去を、君は空っぽの過去を。でも、
全く逆の僕たちでも、生きてるのは"今"なんだ。僕たちは"今"を生きて、"未来"へ向かって歩
いていくんだ。」
「…うん…」
 ほとんど聞こえない声でカリンは答えた。
「ああ、もう陳腐な言い回しだな…もっとマシにいえればいいんだけど…」
「……うん…」
 僕のぼやきに律義にカリンはほとんど聞こえない声で答えた。
「えーと…」
「………うん…」
 カリンはうつむいたままで僕の言葉を待たずに返事をする。
 僕は、ため息を軽くつくとカリンを軽く抱き寄せた。
 ぽんぽん、と軽く背中を叩いてやりながらよしよし、と頭をなでてやる。
「…ふ、ふえぇ…」
 カリンが僕の腕の中で嗚咽を漏らし始めた。
 女の子ってちっちゃいもんなんだな。
 僕は全く持って場違いな感想を持った。
「っく…ご、ごめん、ごめんね…ぼ、ボクがわがままい、いったから…あ、あしっあしっ…」
 カリンは嗚咽交じりにようやく言った。
 ああ、なんだ、僕のことを気にしてくれてたのか。
「大丈夫だよ、カリン、このぐらいならすぐに治せるから。」
「…っく、ほ、ほんとっにっ…?」
 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、カリンが僕を見上げる。
 自分の事より他人の事、かな?
 やさしい娘だな。
「っく、よ、よかったぁ…」
 心底ほっとしたようにカリンは言った。
「だから、帰ろうよ、カリン。みんなのいるホテルにさ。」
「うん…うんっ!!」
 泣いたカラスがもう笑った。
 うれしそうにカリンは笑顔をうかべながら僕に肩を貸してくれた。
 カリンに肩を借りて、片足でひょこひょこと歩きながら僕は空を見上げる。
 空には何事もなかったように美しい月がいた。
「やっとわかったんだ。」
 僕はポツリと呟いた。
「…え?」
 カリンが僕に何事かと尋ね返してくる。
「僕が、何者かってことを、さ。」
「?」
 僕の言ってる事がわからずに、カリンは不思議そうな目で僕の事を見た。
「僕は、僕だったのさ。」
 僕はおおまじめに言った。
「ぷっ…なにそれ」
 カリンは僕の言葉がおかしかったのか、くすくすと笑い始めた。
 そりゃあそうだ。
 当たり前のことだもんな。
 僕が僕だなんて。
「あんまり笑うなよ。今まで気付けなかったんだからさ。」
 我ながら電波系な発言だな。
 そう思った僕にカリンは、笑顔のままで答えた。
「バカだなぁ…京介さんは京介さんだよ!ボクがボクなのと同じように、ね。」
 そう言うカリンはなんだかとても、そう、綺麗だった。
「僕は、僕にしかなれない。クレイン兄さんみたいにはなれない。光流くんみたいな力も無け
れば、虹ちゃんみたいに素直にもなれない。でも、それでも僕なんだ。どんなに優柔不断で、
カッコ悪くてもね。」
 絶望、虚しさ、飢え、嫉み、孤独。
 いろんな感情が僕の心を蝕んでいた。
 そして僕自身の過去がそれに拍車をかけていた。
 でも、もう否定はしない。
 それも、僕なんだから。
 良いところも悪いところも全部が僕なんだ。
 そう認める事が今なら出来る。
 たったひとかけらの勇気がもう僕にはあるのだから。
「京介さんは、かっこいいよ…少なくともボクにとってはね。戻ってきてくれた時は白馬の王
子様に見えたよ」
 あはは、と照れ笑いを浮かべながらカリンが言う。
 頬をほのかに赤く染めているカリンの顔は、肩を借りている僕の顔の目の前だった。
 ああ。
 まずい。
 カリンが可愛く見えて仕方が無い。
「…京介さん?」
 カリンが小首を傾げて僕を見る。
 何かが僕の身体にのしかかってくるような感触。
「あ…」
 カリンが僕の視線に何かを思ったのか、意を決したように目を閉じた。
 僕の目も自然に閉じていく。
 そして…
「ご、ごめん…」
 僕はかろうじて口に出した。
 身体から急激に力が抜けていく。
「…きょうすけ、さん?」
 カリンが怪訝そうな声で言ってる。
 なるほど、スターファイアmk2なしで召喚神を召喚すると、こんなリスクがあるのか。
 ほっとしたような、がっかりしたような。
 そんな気持ちのまま、僕は深い眠りに落ちていった。
「もう、ばかー!」
 そんなカリンの声を遠くに聞きながら。

 

 


 

 

−エピローグ−

 目を覚ますと、僕は見覚えのある部屋だった。
 ここは…そう、僕が泊まっている部屋だ。
 ゆっくりと半身を起こして周りを見まわすと、まだ同室の光流くんは眠っていた。
 窓から外を見れば空は明るくなりつつはあっても、まだ、夜だった。
 夢だったのか?
 いや、そんなはずは無い。
 間違い無く現実だった。
 昨日までの僕。
 今日の僕。
 ちゃんと違うところがあるから。
 それは、僕の心に抱いた、たったひとかけらの勇気。
 不意にがちゃり、と音がして部屋のドアが開いた。
「ん?よう、京介。もう起きたのか?」
 光流くんが寝てるのもあって、やや押さえた声でクレイン兄さんが言った。
 ふと見れば僕の無くなっていたはずの足はもう治っていた。
 多分クレイン兄さんが治してくれたんだろう。
「うん、まあね」
 そう言って僕はベットから出た。
 身体に異常が無いか、軽く調べる。
 うん、異常はなさそうだ。 
「ちょっと前までカリンちゃんがいたんだけどな。なんか怒りながら心配してたぞ?」
「は、ははは…」
 僕は乾いた笑いを浮かべてながら軽く伸びをした。
 そりゃあ。あの雰囲気で眠ちゃったんだから怒るよな、普通。
 でも、それでも心配してくれて他のがいかにもカリンらしいな。
 なんだか無性にカリンと話したかった。
 昨日までの事を話したい。
 今日の事を話したい。
 明日からの事を話したい。
 そして。
 何よりも今の僕の気持ちを素直に伝えたい。
「ふむ、いい顔してるじゃないか。もう、心配はいらないな」
「ん、ありがとうクレイン兄さん、もう大丈夫だよ。いろいろと、ね」
 そういいながら、僕はスターファイアmk2をホルスターに入れる。
 今度は忘れないように。
 ふとまぶしさを感じて窓の方を見れば、もうすでに太陽が海の彼方に顔を覗かせていた。
 夜明け。
 そうか、夜は明けるんだったな。
 昨晩の騒ぎがまるでウソのような、誰にとってもありきたりの風景。
 でも、ありきたりなものなんて、この世の中にあるのだろうか?
 昨日と全く同じ今日なんて、きっとありはしない。
 昨日までのよどんだ僕ではわからなかった事はきっとたくさんあるだろうから。
 今までありふれていた毎日だってきっと何か発見があるだろう。
 だから、これから始まるありふれた一日が僕にはとてもステキなものに思えた。
 でも、どうせだったらステキな一日にふさわしい始まりにしよう。
 そう思って、僕はクレイン兄さんの方を改めて見た。
 こんな事をするのは何年振りだろう?
 自分の過去を知ってからは、ずっとしてなかった気がする。
「どうした、京介?」
 まぶしい朝日を左手でさえぎりながらクレイン兄さんが僕に尋ねる。
 僕は笑顔を浮かべてから、こう答えた。
「おはよう、クレイン兄さん!」
 こうして僕のステキな、ありふれた一日が始まった。

 

 

 

 

〜もう一つのエピローグ〜
第弐話「ひとかけら」〜カリンの場合〜
・第弐話外伝「なんてステキな青い海」

 

 


「〜まほろば〜 なんてステキなありふれた日々」 第弐話「ひとかけら」
第弐話「ひとかけら〜もう一つのエピローグ〜」
第弐話外伝「なんてステキな青い海」 2000.4.9(日)00:04
第弐話「ひとかけら」〜カリンの場合〜 2000.4.14(金)23:43
 
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